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第4話:色褪せない記憶と、今の君

視界を埋め尽くすようなオレンジ色の花畑を抜けると、私たちは公園の奥へと続く、なだらかな起伏のある遊歩道へと足を踏み入れた。

 頭上を覆うのは、樹齢何十年という立派なケヤキやクヌギの木々だ。緑の葉が幾重にも重なり合って作られた自然のトンネルは、ジリジリと肌を刺すような真夏の太陽を優しく遮ってくれている。葉と葉の隙間からこぼれ落ちる木漏れ日が、足元のアスファルトに水玉模様のような光の斑点を作っては、風が吹くたびにゆらゆらと形を変えていた。

「ふぅ……。やっぱり日陰に入ると全然違うね。生き返る気分」

 私は、さっきまで太陽の熱をたっぷりと吸収していたつば広の麦わら帽子をふわりと脱ぎ、手でパタパタと顔の周りを扇いだ。風通しの良い白いサマードレスを着ていても、背中にはうっすらと汗をかいているのがわかる。

「本当だね。今年の夏は、なんだか特別暑い気がするよ」

 私の隣を歩くとおるも、首元に少しだけ汗を滲ませながら、眩しそうに木々の隙間から見える空を見上げた。

 遊歩道の脇には、所々に古びた木製のベンチが設置されている。私たちは示し合わせたように、一番涼しそうな風が通り抜ける大きなケヤキの木の下のベンチに腰を下ろした。

 先ほどテーマパークの入り口の自販機で買った、ペットボトルの冷たいレモンウォーターを一口飲む。微かな酸味と冷たさが、火照った体に染み渡っていく。

「あ、ほら夏海。あっち」

 透が持っていたペットボトルで軽く指差した先を追うと、遊歩道の向こう側から、男女六、七人のグループが賑やかな声を上げながら歩いてくるのが見えた。

 お揃いのような派手な柄のシャツを着た男の子たちに、日傘をさしてキャッキャと笑い声を上げる女の子たち。そのはち切れんばかりの若さと、周囲の目など気にも留めないノリの良さは、いかにも「夏休みを満喫している大学生のサークル仲間」という雰囲気を醸し出していた。

「若いねぇ……。元気だねぇ……」

 私がまるでおばあちゃんのような感想を漏らすと、透は声を上げて笑った。

「ははっ、なんだよそれ。俺たちだって、ついこの間まであんな感じだったじゃないか」

「ついこの間って、もう卒業して何年も経つよ? 今あんな炎天下ではしゃぎ回ったら、絶対に明日の仕事に響くもん」

「違いない。でもさ……あの子たちを見てたら、なんだか大学に入ったばかりの頃のこと、思い出しちゃったな」

 透はベンチの背もたれに深く体重を預け、目を細めて遠くを見つめた。

 その横顔には、懐かしさと、ほんの少しの照れくささが混じり合っているように見えた。

「大学に入ったばかりの頃……ああ、軽音サークルの新歓の時?」

「そうそう。あの時の夏海、すっごく強引だったよな」

 透の言葉に、私の脳裏にも、七年前の春の記憶が色鮮やかに蘇ってきた。

 千葉駅の近くにある、床が油で少しベタベタするような、安くて騒がしい大衆居酒屋。タバコの煙と、焼鳥の匂いと、新入生たちの熱気でむせ返るような空間。

 当時の私は、明るい黄色のカーディガンを着て、とにかく新しい環境でたくさんの友達を作ろうと、テーブルのあちこちを飛び回って乾杯を繰り返していた。

 そんな中、ふと視線を向けた部屋の一番隅っこの席。そこには、無地の地味なグレーのシャツを着て、誰とも目を合わせず、ただひたすらにグラスのオレンジジュースをストローでちびちびとかき混ぜている、ひどく猫背な男の子がいた。それが、十八歳の佐々木透だった。

 周りの喧騒から完全に切り離され、まるで「自分はここにいない存在だ」とでも言いたげに気配を消している彼を見て、当時の私はなぜだか、どうしても放っておくことができなかった。

『ねえ! そこ、空いてる?』

 私は自分のジョッキを持って、透の隣の座布団にドカッと腰を下ろした。

『えっ……あ、はい……』

『私、藤原夏海! 経済学部の新入生。君は?』

『さ、佐々木、透です……文学部です』

『透くんね! よろしく! っていうか、なんでこんな隅っこで一人でお通しの枝豆ばっかり食べてるの? つまんないの?』

『いや、そういうわけじゃ……ただ、こういう大人数の飲み会とか、あんまり慣れてなくて……』

 透は、オドオドと視線を彷徨わせながら、消え入りそうな声で答えた。

 今思えば、なんてデリカシーのない、土足で他人のパーソナルスペースに踏み込むようなアプローチだったのだろうと思う。でも、あの時の私は『じゃあ、私が話し相手になってあげる! 何の楽器やりたいの?』と、強引に彼のオレンジジュースのグラスに自分のジョッキをぶつけて、乾杯を強要したのだ。

「……あの時は、本当にびっくりしたよ」

 隣に座る現在の透が、ふふっと笑いながら静かに語り始めた。

「いきなり、ものすごく明るくて派手な女の子が隣に座ってきて、嵐みたいに質問攻めにしてきたんだから。俺、あのまま誰にも話しかけられなかったら、途中でこっそり帰って、サークルも辞めるつもりだったんだ」

「え、そうだったの? 知らなかった」

「うん。俺、昔から人見知りで、自分から輪に入っていくのが本当に苦手でさ。あの居酒屋でも、自分だけが世界から浮いてるみたいで、すごく息苦しかった」

 透は、手に持っていたペットボトルを両手で包み込むように握りしめ、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。

「でも、夏海が隣でずっと笑ってくれて、くだらない話をしてくれて。そのおかげで、周りの先輩たちとも少しずつ話せるようになったし、大学生活そのものが、一気に明るい色に変わったんだ」

 木漏れ日が、透の優しい瞳にキラキラと反射している。

「あの時、夏海が声をかけてくれなかったら……俺の大学生活は、きっと灰色で、孤独なものになってたと思う。だから、俺にとって夏海は、ただの友達以上の……なんというか、大げさかもしれないけど、恩人みたいな存在なんだよ」

 真っ直ぐな、一点の曇りもない感謝の言葉だった。

 透は、私の方へと顔を向け、まるで出会ったあの日と同じように、少しだけ照れくさそうに、けれど深く穏やかな笑みを浮かべた。

「本当に、感謝してる。ずっと夏海が隣にいてくれて、俺はすごく幸せ者だよ」

 ドクン、と胸が鳴った。

 彼の言葉は、とても純粋で、温かくて、私という存在を全肯定してくれるような優しさに満ちていた。

 普通なら、これほど嬉しい言葉はないだろう。「幸せ者だ」なんて言われたら、飛び上がって喜ぶべきなのだ。

 それなのに。

 どうして私は今、こんなにも胸の奥がチクチクと痛み、泣きたくなるほどの絶望感に襲われているのだろう。

 私は、透から視線を外し、木々の隙間から覗く空を見上げた。

 吸い込まれそうなほど青く、どこまでも高く澄み渡った、色褪せない夏の空。

 あの日、私から彼に声をかけた。あの日、彼を孤独から救い出した。その『過去の記憶』が、彼の中で美しく色褪せないまま残り続けているからこそ、私は苦しいのだ。

 恩人。

 親友。

 恩義と友情で結ばれた、特別で、絶対に壊れない関係。

 透は、その美しくて安全な箱の中に私を大切にしまい込み、鍵をかけてしまっている。彼にとっての私は、いつまでも「あの日の明るくて優しい夏海」であり、自分を導いてくれる「頼りになる存在」なのだ。

 違う。そうじゃない。

 私は、あなたを導く光になりたいわけじゃない。恩人なんていう、崇高で手の届かない存在になんて、なりたくない。

 私がなりたいのは、あなたがただ「一人の男」として狂おしいほどに求め、抱きしめ、手放したくないと願う「ただの女」なのだ。

「……ねえ、透」

 私は、膝の上でギュッと両手を握りしめ、自分でも驚くほど低く、震える声で彼の名前を呼んだ。

「ん? どうした? 具合でも悪くなった?」

 透が、すぐに私の異変に気づき、心配そうな顔で覗き込んでくる。その過保護なまでの優しさが、今はひどく残酷に感じられた。

「私ね、透の恩人になんて、なりたくなかった」

「え……?」

「大学の頃の思い出話をして、あの時は楽しかったね、君のおかげだよって笑い合って……そういうの、もう嫌なの」

 言ってしまえ。

 このまま、過去の思い出という名の鎖を断ち切って、全部壊してしまえ。

「私はただの友達じゃない」と。「恩人なんて枠組みから出して、私を女として見てほしい」と。

 喉元まで、激しい感情が込み上げていた。あと一言、私が口を開けば、彼が大切に守ってきた心地よい関係は音を立てて崩れ去るだろう。

 私がきっと、ひどく歪んだ、泣き出しそうな顔をしていたからだろう。

 透は目を見開き、今まで見たことがないほど動揺した表情を浮かべた。

「夏海……? 何言ってるんだよ。俺、何か夏海を怒らせるようなこと、言ったかな……ごめん、もし気に障ったなら……」

 あぁ、ダメだ。

 彼のその、怯えたような、私が傷つくことを何よりも恐れている気弱な顔を見てしまったら。

 これ以上、彼を追いつめるような残酷な真似は、私にはできなかった。

「……ううん。ごめん、なんでもない。ちょっと、暑さで頭がボーッとしちゃったみたい」

 私は、ギリギリのところで込み上げていた感情を飲み込み、無理やり口角を上げて、いつもの「明るくて頼りになる夏海」の笑顔を作った。

「変なこと言ってごめんね。思い出話、私もすごく楽しかったよ。透があの時オレンジジュース飲んでたの、本当にダサかったなって思い出してさ」

「ちょ、それ今関係ないだろ! もう、びっくりさせるなよ……本当に体調悪いのかと思って、焦ったじゃないか」

 透はホッと息を吐き出し、胸をなでおろした。

 私は、ベンチの隣に置いていた麦わら帽子を再び深く被り直した。

 帽子のつばが、私の本当の表情を、彼から見えなくしてくれるようにと願いながら。

「ほら、休んでばかりいないで次行くよ! せっかく房総まで来たんだから、夕方は海まで行きたい!」

 私はわざと明るい声で立ち上がり、彼の腕を軽く引っ張った。

 過去の思い出を懐かしんで笑い合うのは、もう終わりにしたい。

 この抜けるような青空の下で、ただの友達のまま、ぬるま湯のような優しさに浸り続けることの限界を、私は誰よりもはっきりと感じ取っていた。

 夕暮れの海に着くまでに。今日という日が終わるまでに。

 私は絶対に、この関係に決着をつける。

 色褪せない記憶の中に逃げ込む彼の手を引いて、新しい「今」へ、そして「これから」へと、無理やりにでも引きずり出してやるのだと。

 ジリジリと照りつける夏の太陽を背に受けながら、私は一人、静かに、けれど決して揺るがない決意を固めていた。

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