第3話:つば広の帽子と、君の言葉
梅雨明けの宣言から数日。千葉県の上空には、まるで絵の具をチューブから直接絞り出したような、濃く、そして暴力的なまでに鮮やかな夏の青空が広がっていた。
約束の土曜日。私は朝からクローゼットの前で、何度も服を引っ張り出してはため息をついていた。
今日は、透の運転で房総半島にある広大な花のテーマパークへ行く日だ。いつものカフェや近所の海浜公園へ行くのとは、少しだけわけが違う。遠出のドライブとなれば、それはもう、世間一般的に見れば立派な「デート」のはずだった。
いつも通りのデニムにTシャツという「気の置けない女友達」の制服を脱ぎ捨てて、今日ばかりは少しだけ、彼をドキッとさせたかった。
迷った末に選んだのは、風通しの良いノースリーブの白いサマードレス。そして、この日のために新調した、つばの広い麦わら帽子だった。普段の私なら絶対に選ばないような、ひどく女の子らしい、少し気恥ずかしくなるようなアイテムだ。
「……うん、悪くない」
姿見の前で帽子を被り、少しだけつばの角度を調整してみる。鏡の中の私は、いつものサバサバした「夏海」ではなく、誰かの隣を歩く「恋人」のように見えた気がした。
待ち合わせの午前十時。マンションの下に停まっていた透の車の助手席に乗り込むと、彼はいつも通り「おはよう」と穏やかに微笑んだ後、私の姿を見て目を丸くした。
「おはよう。……あれ、夏海、今日なんか雰囲気違うね」
「そ、そう? まあ、たまにはこういうのもいいかなって。変?」
私はシートベルトを引き出しながら、心臓の音をごまかすように努めて平坦な声を出した。
「ううん、全然変じゃないよ。すごく似合ってる。……なんか、お嬢様みたいだ」
「お嬢様って何よ。からかってるでしょ」
「からかってないって。本当に似合ってるよ。よし、じゃあ出発しようか」
透は照れたように笑うと、スムーズに車を発進させた。
たったそれだけの会話なのに、私の胸の奥は甘く痺れていた。彼に「似合ってる」と言われただけで、何時間も鏡の前で悩んだ時間がすべて報われたような気がするのだから、恋をしている人間の思考回路というのは本当に単純で馬鹿げている。
車は京葉道路から館山自動車道へと入り、南へと向かってひた走る。
窓の外の景色は、無機質な灰色のビル群から、徐々に生命力に溢れた濃い緑色の山々へと変わっていった。カーステレオからは、夏らしいアップテンポな曲が静かに流れている。
助手席から盗み見る透の横顔は、真剣に前を向いていて頼もしい。ハンドルを握る手首に浮き出た筋や、時折眩しそうに目を細める表情。そのすべてを独り占めできているこの空間が、私はたまらなく好きだった。
「着いたよ。夏海、起き……って、起きてるか」
一時間半ほどのドライブを経て、目的地のテーマパークに到着した。広大な敷地を持つその公園は、なだらかな丘陵地帯に作られており、駐車場から出た瞬間に、むせ返るような土と緑の匂いが夏の熱気と共に押し寄せてきた。
「うわぁ、すっごく広いね! しかも、すごい日差し……」
車を降りた途端にジリジリと肌を焼く太陽の光に、私は慌てて持ってきたつば広の麦わら帽子を被った。
「今日は特別暑いからね。ほら、熱中症にならないように」
透はそう言って、クーラーボックスからよく冷えたペットボトルの水を一本、私に手渡してくれた。こういう気遣いが呼吸をするように自然にできるところが、彼のズルいところだ。
私たちは、なだらかな遊歩道を並んで歩き始めた。
丘を一つ越えた瞬間、目の前に信じられないほど鮮やかな光景が広がった。
「うわぁ……! 透、見て! すごい!」
思わず歓声を上げて駆け寄った先には、視界を埋め尽くすほどの一面のオレンジ色が広がっていた。
太陽の光をたっぷり吸い込んだ、何万本というマリーゴールドの花畑。幾重にも重なったフリルのような花びらが、夏の強い風を受けて、一斉にざわわざわわと揺れている。
抜けるような青空と、大地のオレンジ色。その強烈なコントラストは、息を呑むほど美しかった。
「本当にすごいな……。見渡す限り、オレンジ色だ」
透も私の隣に並び、感嘆の声を漏らした。
私は花畑の小道に少しだけ足を踏み入れ、振り返った。その瞬間、丘の上からふわりと強い風が吹き下ろしてきた。
「あっ……」
風で飛ばされそうになった麦わら帽子を、私は慌てて両手で押さえた。
白いサマードレスの裾が大きくひるがえり、足元のオレンジ色の花々が、私を包み込むように波打って揺れる。
私は帽子を押さえたまま、目を細めて、数歩後ろにいる彼に向かって無邪気に笑いかけた。
「ねえ透、本当に綺麗だよ! 来てよかったね!」
満面の笑みを向けたはずだった。けれど、透は何も答えなかった。
彼は立ち止まったまま、まるで魔法にかけられたように、じっと私を見つめていた。その真面目で真っ直ぐな瞳が、私を上から下まで、ただ静かに捉えている。
「……透? どうしたの?」
不思議に思って小首を傾げると、透はハッとして、少しだけ目を伏せた。そして、意を決したようにゆっくりと口を開いた。
「……夏海が、そのつばの広い帽子を押さえて笑うとさ」
「うん?」
「足元で風に揺れてる、あのオレンジ色の花にそっくりだなって……」
透の声は、風の音にかき消されそうなほど小さかったけれど、私の耳には信じられないほどはっきりと届いた。
「え……?」
「その……なんていうか。太陽みたいに明るくて、すごく、綺麗だ」
ドクン、と心臓が大きく跳ねた。
息が止まりそうだった。いつもは「ただの友達」という壁の後ろに隠れて、絶対に安全な言葉しか選ばない彼が。からかうような冗談でもなく、ごまかしの笑いもなく、ただ純粋な賞賛として「綺麗だ」と言ってくれた。
その言葉の響きが、夏の熱気を超えるほどの熱さを持って、私の全身を駆け巡った。顔がカッと熱くなるのが自分でもわかる。
「と、透……それって……」
私が何かを言い返そうと一歩踏み出した、まさにその時だった。
「あっ、やば、俺今すげー恥ずかしいこと言ったかも! 今のなし、忘れて!」
透は突然我に返ったように顔を真っ赤にしてパニックになり、慌てて首から下げていた一眼レフカメラを構えた。
「ほら、夏海、そこ立って! 景色がいいから写真撮るよ! はい、笑ってー!」
カシャ、カシャ、と無機質なシャッター音が連続して響く。彼は大きな黒いレンズの後ろに自分の顔を完全に隠してしまい、もう私と目を合わせようとはしなかった。
「……ちょっと、透」
「動かないでよ、ピントずれるから」
「今のなしって、何よ」
私は帽子を押さえたまま、ぎゅっと唇を噛み締めた。
嬉しかった。どうしようもなく、泣きたくなるくらい嬉しかったのに。
彼自身の口から出た「綺麗だ」という特別な言葉を、彼自身が「恥ずかしいから」という理由で、すぐに無かったことにしようとする。それが、たまらなく悲しくて、もどかしかった。
どうして、そんなに逃げるの。
どうして、カメラのレンズ越しでしか、私を真っ直ぐに見つめてくれないの。
綺麗な花に例えてくれるようなロマンチックな一面があるなら、どうして、一番肝心な「好きだ」というたった三文字の言葉だけは、決して口にしてくれないのだろう。
「……もう、透のバカ」
私は聞こえないくらいの小さな声で呟き、カメラを構える彼に向かって、わざとらしく大きく、そして少しだけ寂しそうに微笑んでみせた。
一面に咲き誇るオレンジ色の花々は、そんな私の焦燥感なんて知る由もなく、ただ夏の風に吹かれて、無邪気に揺れ続けていた。私たちの間の距離は、あと一歩踏み出せば届きそうなのに、その一歩が、果てしなく遠かった。




