第2話:心地よいだけの退屈な日々
稲毛の海から数日が過ぎた、次の週末。
私たちは、いつもと変わらない休日の午後を過ごしていた。
国道357号線、通称・湾岸道路を走る透の車の助手席。ここは、すっかり私の指定席になっている。カーステレオからは、私が自分のスマートフォンで作ったお気に入りのプレイリストが流れていて、透はそれに合わせて時折、小さく鼻歌を歌ったりしている。
車窓からは、幕張新都心の近代的なビル群と、その向こう側に広がる青い海が交互に見え隠れしていた。エアコンの効いた車内は快適そのもので、ほのかに香るシトラス系の芳香剤の匂いが、私に深い安心感を与えてくれる。
「今日はどこ行く? 夏海、最近仕事でパソコンばっかり見てるって言ってたから、少し緑が多いところの方がいいかな?」
ハンドルを握りながら、透がチラリと私を見て尋ねた。
信号待ちで停車した彼の横顔は、とても穏やかだ。休日のリラックスした雰囲気のせいか、普段のスーツ姿とは違う、洗いざらしのリネンシャツがよく似合っている。
「うーん……。緑もいいけど、今日は甘いものが食べたい気分。この前行った、海浜幕張の近くにあるカフェのケーキ、すっごく美味しかったよね」
「あ、あの海が見えるテラス席があるところ? いいね。あそこのモンブラン、夏海すげー感動してたもんね」
「モンブランじゃなくて、フルーツタルトだよ。透の記憶力、ほんと適当なんだから」
「あれ、そうだっけ? ごめんごめん」
透が困ったように笑い、青に変わった信号に合わせてゆっくりとアクセルを踏み込む。
こういう他愛のないやり取りは、何百回、何千回と繰り返してきた。彼は私の好みを熟知しているつもりで、たまにこうして少しだけ外す。でも、私の体調や気分の浮き沈みに関しては、エスパーかと思うくらい正確に察知するのだ。
カフェに到着すると、透は当然のように私の分までドアを開け、日差しの強いテラス席ではなく、クーラーの風が直接当たらない店内のソファ席を選んでくれた。
「夏海、冷え性だから。テラスだと後で寒くなるでしょ」
そう言って、メニューを見もせずに「アイスティーとフルーツタルト、氷は少なめで」と私の分まで注文を済ませてしまう。
完璧すぎる気遣い。
まるで、何十年も連れ添った夫婦みたいだ、と時々思う。
でも、私たちは夫婦でもなければ、恋人でもない。
ふと、先週の金曜日の夜の出来事が頭をよぎった。
大学時代の軽音サークルのメンバーで集まった、千葉駅近くの居酒屋での飲み会。久しぶりに顔を合わせた友人たちは、すっかり出来上がったテンションで、隣同士に座っていた私たちにいつものように矛先を向けてきた。
『で、お前ら結局いつ結婚すんの?』
サークルの元部長が、ジョッキを片手にニヤニヤと笑いながら爆弾を投下した。
『ほんとそれ! 大学の頃からずっと一緒にいるじゃん。もう付き合って何年目?』
周りの女の子たちも面白がって囃し立てる。私は、いつものパターンだと思いながらも、心臓が跳ねるのを感じていた。こういう時、透がどう答えるのか。ほんの少しだけ、期待してしまう自分がいるのだ。
けれど、透の反応はいつも決まって、残酷なまでに早かった。
『いやいや、俺たちはただの仲良い友達だから! 全然そういうんじゃないってば』
透は両手をパタパタと振って、顔を赤くしながら全力で否定した。
『またまた〜。隠さなくてもいいじゃん』
『ほんとだよ。夏海みたいな高嶺の花、俺なんかと釣り合うわけないじゃん。夏海にはもっと、こう、引っ張っていくような男らしい人が似合うんだって』
透は、照れ隠しなのか、それとも本心なのか。私を「高嶺の花」と持ち上げ、自分を卑下することで、見えない壁を高くそびえ立たせた。
『あはは、そうそう! 透は私の手のかかる弟みたいなもん! 誰かこいつにもらってやってよー』
私は、引きつりそうになる頬の筋肉を必死に動かして、おどけてみせた。ジョッキのビールをあおりながら、喉の奥が焼けるように熱くなるのを感じた。アルコールのせいじゃない。自分が口にした「弟みたい」という言葉が、鋭いナイフになって自分自身の心を切り裂いていたからだ。
どうして、そんなふうに線を引くの。
高嶺の花なんかじゃない。私はずっと、あなたの隣に立っているのに。手を伸ばせば、すぐに届く距離にいるのに。
「……夏海? どうしたの、ボーッとして」
目の前でひらひらと手を振られ、私はハッと我に返った。
テーブルの上には、いつの間にか注文したフルーツタルトとアイスティーが並べられていた。氷の少ないグラスの表面に、水滴がびっしりとついている。
「ううん、なんでもない。ちょっと仕事のこと思い出してただけ」
「そっか。休みの日くらい、仕事のことは忘れなよ。ほら、タルト食べて。美味しいよ」
透が自分の頼んだチーズケーキを一口食べ、目を細めて微笑む。
その春の日だまりみたいな温かい笑顔を見ていると、先ほどの居酒屋の記憶でささくれ立っていた心が、ゆっくりと解けていくのを感じる。
彼と一緒にいるのは、心地よい。本当に、心地よいのだ。
喧嘩をすることもないし、気を使うこともない。沈黙が落ちても、全く苦にならない。それは、私たちが長い時間をかけて築き上げてきた、かけがえのない関係性だ。
でも、この「心地よさ」は、時々ひどく息苦しくなる。
波風の立たない平坦な毎日は、言い換えれば「退屈」だ。どれだけ一緒に時間を過ごしても、二人で美味しいものを食べても、帰り際になれば「じゃあ、また来週ね」と、あっさりとそれぞれの日常へと帰っていく。
そこには、恋人同士特有の「離れがたい熱」も、触れたいと願う「焦燥感」も存在しない。少なくとも、透の側からは、そんな感情は微塵も感じられないのだ。
私は、フォークでフルーツタルトのいちごを小さく切り分けながら、ふんわりと笑う透を盗み見た。
優しくて、気弱で、誰かを傷つけることを極端に恐れる彼。
きっと透は、この心地よい「親友」というポジションを失うのが怖いのだ。私が一歩踏み込んで、もし関係がこじれてしまったら、今までのように休日に笑い合うこともできなくなる。そう思って、彼は無意識にブレーキをかけ続けている。
じゃあ、私から告白すればいい。
簡単なことだ。「私はあなたが好き。友達じゃなくて、恋人になりたい」と、口に出してしまえばいいのだから。
でも、もし透が本当に、私のことを「手のかかる女友達」としか見ていなかったら?
もし私の想いが、彼の重荷になってしまったら?
そう考えると、足がすくんで一歩も動けなくなる。透の臆病さを責められないくらい、私自身もまた、ひどく臆病なのだ。
「……ねえ、透」
「ん?」
「来週さ、ちょっと遠出しない? 房総の方とか」
私は、甘いタルトを飲み込みながら、ふと思いついたように提案した。
このぬるま湯のような退屈な日々に、少しだけ変化を与えたかった。いつも通りのカフェ、いつも通りのドライブコースから抜け出して、何かきっかけが欲しかったのだ。
「房総? いいね。どこか行きたいところあるの?」
「うん。なんか、お花がいっぱい咲いてるところ。夏だし、パーッと綺麗な景色が見たいなって」
「お花畑か。いいよ、探しておく。夏海、そういう綺麗な景色好きだもんね」
「うん。透と一緒に見たいな、って思って」
最後の一言は、わざと少しだけ甘い声で言ってみた。
透はフォークを持った手をピタリと止め、パチパチと瞬きをしてから、照れたように鼻の頭を掻いた。
「……そ、そっか。わかった。任せておいて」
耳の先が少しだけ赤くなっているのを見逃さなかった。
なんだ、透だって、全然意識してないわけじゃないんじゃない。
私は、グラスのアイスティーをストローで一気に吸い込んだ。冷たい紅茶が、モヤモヤしていた胸の奥を少しだけスッキリさせてくれる。
心地よいだけの退屈な日々から抜け出すには、ほんの少しの勇気と、きっかけが必要だ。来週の房総へのドライブが、そのきっかけになってくれることを、私は静かに、けれど強く祈っていた。




