表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

最終話:終わらない夏を君と

八月の終わり。

 お盆を過ぎると、朝夕の風にほんの少しだけ秋の気配が混じるようになる。とはいえ、日中の千葉はまだまだ暴力的なまでの夏の熱気に包まれており、アスファルトからはゆらゆらと陽炎が立ち上っていた。

 あの日、九十九里の夜の海で、七年越しの片思いを実らせてから、早くも一ヶ月近くが経とうとしている。

 私ととおるの関係は、周りが驚くほど劇的に、そしてごく自然に「恋人同士」へと移行していた。

『えええええっ!? お前ら、ついに付き合ったの!?』

『嘘でしょ! 透が!? あの奥手な透が、ついに男を見せたってわけ!?』

 大学時代の軽音サークルのメンバーが集まるグループLINEに、透から「俺たち、付き合うことになりました」と報告のメッセージを入れた時の、友人たちの阿鼻叫喚のスタンプの嵐は、今思い返しても笑ってしまう。

 みんな、私たちがくっつくのをずっと見守って(面白がって)くれていたのだ。今まで「ただの仲良い友達だから」と頑なに否定し続けていた透の突然の宣言に、誰もが我が事のように喜んでくれた。

 日曜日のお昼下がり。

 私は、あの房総のテーマパークへ行った時と同じ、つば広の麦わら帽子と風通しの良い白いワンピースを着て、マンションの下で彼の車を待っていた。

 ブォン、と静かなエンジン音を響かせて、見慣れたSUVが目の前に滑り込んでくる。

 助手席のドアを開けると、エアコンのひんやりとした空気と一緒に、透の少し照れくさそうな、けれど堂々とした笑顔が出迎えてくれた。

「おはよう、夏海。待たせてごめん」

「ううん、今降りてきたところ。おはよう、透」

 シートに座り、ドアを閉めた瞬間だった。

 透が身を乗り出してきて、私の頬を両手でそっと包み込むと、チュッと、触れるだけの軽いキスを落とした。

「……っ、もう。外から見えたらどうするの」

 私が顔を赤くして文句を言うと、透は悪びれる様子もなく「車のスモーク貼ってあるから大丈夫だよ。それに、早く会いたくてずっと我慢してたんだから、これくらい許して」と笑った。

 付き合い始めてからの透は、本当に変わった。

 根っこの優しさや、誰かを思いやる穏やかな性格はそのままだけれど、私に対する「遠慮」や「見えない壁」が完全に消え去ったのだ。

 今までは絶対に自分から触れてこなかった彼が、歩く時は必ず自分から私の手を握り、隙あらばこうして甘い言葉と共に触れてくる。あの「気弱でヘタレな親友」はどこへ行ってしまったのかと思うほど、今の彼は男らしくて、少しだけ強引だ。

「今日はどこ行くの?」

 私がシートベルトを引き出しながら尋ねると、透はハンドルを握りながら前を見た。

「うん、今日はね、稲毛の海浜公園。……俺たちが一ヶ月前に、モヤモヤしながら歩いたところ」

「あー……。あの日、私すごくイライラしてたんだからね」

「わかってる。あの日の俺、本当にダメダメだったから。……だから今日は、リベンジも兼ねて、もう一度ちゃんと、恋人としてあそこを歩きたいなって思って」

 透がウインカーを出しながら、真剣な横顔で言った。

 その言葉が嬉しくて、私は「ふふっ、リベンジかぁ。期待してるね」と笑い返した。

 車は、休日の少し混み合う国道を抜け、稲毛海浜公園へと到着した。

 一ヶ月前と同じ、抜けるような青空と、東京湾から吹き付ける強い潮風。

 車を降りて海浜プロムナードへと歩き出すと、さっそく海風が私の麦わら帽子をふわりと持ち上げようとした。

「あっ、また風が……」

 私が帽子を押さえようと手を伸ばすより早く。

 透が私の背後に回り込み、風を遮るように私の肩を抱き寄せた。

「ほら、飛ばされないように」

 彼の大きな体が壁になり、私に吹き付けていた強い風がピタリと止む。

 一ヶ月前は、「ライオンみたいだ」と笑って、私の顔にかかった髪を指で払うだけだった彼が。今はこうして、迷うことなく私を抱き寄せ、自分の体で私を守ってくれている。

「……ありがとう、透」

「どういたしまして。でも、夏海はどんなに髪が乱れてても、可愛いけどね」

「またそういうこと言う。最近、息をするように甘いこと言うようになったよね」

「だって、今まで七年間も我慢してたんだよ? 俺の中に溜まりに溜まった夏海への愛の言葉、一生かけて吐き出さないと消化しきれないから」

 真顔でとんでもないことを言う彼に、私はもう、呆れるのを通り越して胸がいっぱいになってしまった。

 私たちは、しっかりと手を繋ぎ、白い砂浜が続く海岸沿いをゆっくりと歩き始めた。

 ジリジリと照りつける太陽の熱も、隣に彼がいるだけで、不思議と不快ではない。

 かつて、このぬるま湯のような関係がいつまで続くのだろうと、息苦しさを感じながら歩いていた同じ道。

 でも今は、彼と繋いだ手から伝わってくる確かな「熱」が、私の心をどこまでも軽く、自由にしてくれていた。

「ねえ、透」

 私は、波打ち際に目をやりながら、彼に話しかけた。

「ん?」

「私ね、透のこと、気弱で臆病だってずっと思ってた。でも……本当は、私の方がずっと臆病だったんだなって、最近気づいたの」

 透は黙って、私の言葉に耳を傾けてくれている。

「透に嫌われたくなくて、今の心地よい関係を壊すのが怖くて。自分からは絶対に『好き』って言えなかった。透に全部の責任を押し付けて、安全な場所から『早く迎えに来てよ』って、文句ばっかり言ってたの」

 私は、繋いでいる彼の手を、少しだけ強く握りしめた。

「でも、あの九十九里の海で、透がシャツを捨てて、私を抱きしめてくれた時。……私、この人のためなら、もう何も怖くないって思えたんだ。傷つくことも、ぶつかり合うことも、透と一緒なら、全部乗り越えていけるって」

 私の言葉を聞いた透は、立ち止まり、私の方へと向き直った。

 彼の背中越しに、夏の太陽が眩しく輝いている。

「俺もだよ、夏海」

 透は、もう片方の手で私の麦わら帽子のつばを少しだけ持ち上げ、私の目を真っ直ぐに見つめ返した。

「夏海が、俺の臆病な殻を壊してくれた。あのまま俺が逃げ続けてたら、絶対に後悔してた。夏海が泣きながらぶつかってきてくれたから、俺は、男としての一歩を踏み出すことができたんだ」

 透の指先が、私の頬を優しく撫でる。

 出会った頃の、頼りなかった少年の面影はもうない。そこにあるのは、私というたった一人の女性を、全力で愛し、守り抜こうとする、大人の男性の力強い瞳だった。

「俺さ、今まで、夏海を『太陽みたいに眩しい存在』だと思って、遠くから見てるだけで満足しようとしてた」

「うん」

「でも、違った。夏海は遠くにある太陽なんかじゃない。俺のすぐ隣で、俺の人生を一番明るく照らしてくれる、かけがえのない光なんだ。……だからもう、絶対に離さない」

 透はそう言うと、真っ昼間の、周りに散歩をしている人たちがいるのも構わず。

 私をふわりと抱き寄せ、その柔らかい唇を、私の唇に重ねた。

 一ヶ月前の、暗闇の中で交わした涙まじりの不器用なキスとは違う。

 太陽の下で、お互いの存在を確かめ合うような、深く、優しく、そして迷いのないキス。

 彼の腕に包み込まれると、まるで雲の上にいるような、圧倒的な安心感と幸福感に満たされていくのがわかった。

「……っ、もう。人が見てるのに」

 唇が離れた後、私が顔を真っ赤にして彼の胸に顔を埋めると、透は「いいじゃん、俺の彼女だって、世界中に自慢したい気分なんだから」と、私の頭を優しく撫でた。

 ふと、顔を上げて海の方を見ると。

 いつの間にか、西の空が少しずつ傾き始め、海面が淡いオレンジ色に染まり始めていた。

 あの日、房総のテーマパークで見た、一面に咲き誇る花畑のような、鮮やかなオレンジ色。

 色褪せない過去の思い出を懐かしんで笑うのもいい。

 でも私は、今目の前で、透と一緒に見つめているこの景色こそが、何よりも尊くて、美しいと思う。

「……透」

「ん?」

「来年の夏も、再来年の夏も。おばあちゃんになっても、ずっと一緒に海に来てね。……運転手としてじゃなくて、私のたった一人の恋人として」

 私が最高の笑顔で言うと、透は今までで一番、頼もしくて優しい笑顔を浮かべた。

「当たり前だろ。……夏海が歩けなくなっても、俺が手を引いて、ずっと連れて行ってやるよ。覚悟しといてね」

 透が、私の手をぐっと強く引き、自分の方へと引き寄せる。

 私は、彼のその力強い歩みに、もう何の迷いもなくついて行くことができる。

 オレンジ色に染まる空の下。

 長く伸びた二人のシルエットは、もう二度と離れることなく、しっかりと一つに結ばれていた。

 少し冷たい空気を二人で噛み締めながら、私たちが歩いていく未来には、もうどんな絶望も見えない。

 ただ、信じられないくらい眩しくて温かい希望の光だけが、目の前でずっと輝き続けているのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ