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第1話:潮風と、もどかしい視線

七月半ばの千葉県、稲毛海浜公園。

 梅雨明けの空は、まるで水彩絵の具をたっぷりと含ませた筆で一気に塗りたくったような、混じり気のない群青色に染まっていた。太陽は容赦なくジリジリとアスファルトを焼き付けているが、東京湾から吹き抜けてくる強い潮風のおかげで、まとわりつくような不快な湿気は幾分か和らいでいる。

 長く続く白い人工海浜。ざざーん、ざざーんと、一定のリズムで打ち寄せては白い泡となって消えていく波打ち際を、私たちは並んで歩いていた。

「……あー、もうっ。風、強すぎじゃない?」

 私は顔にかかる長い髪を鬱陶しく思いながら、手ぐしで何度も後ろに流した。せっかく今朝、時間をかけて丁寧にアイロンを当ててきたというのに、海風の前ではそんな努力も無意味らしい。髪は四方八方に散らばり、口の中にまで入ってくる始末だ。

「ははっ、夏海、すごいことになってるよ。なんか、ライオンみたいだ」

 私の隣を歩くとおるが、吹き出さないように口元を手で覆いながら、ふわりと人の良さそうな笑みを浮かべた。

 白い無地のTシャツに、色落ちしたデニム。どこにでもいるようなシンプルな服装なのに、細身で少しだけ猫背な彼のシルエットは、海辺の風景にひどく馴染んでいる。日差しに透ける少し色素の薄い茶色の髪が風に揺れ、その下にある優しくて真面目な二重の瞳が、面白そうに私を捉えていた。

「ちょっと、ライオンって何よ。女の子に向かって失礼でしょ」

 私がむすっとした顔を作って軽く睨むと、透は「ごめんごめん、怒んないでよ」と、全く悪びれる様子もなく肩をすくめた。

「だって、本当にすごいんだもん。ほら、貸して」

 透はそう言うと、歩みを止め、私の顔にかかっていた髪を、長くて綺麗な指先でそっと耳の後ろへと払ってくれた。

 ――ドキッ。

 指先が微かに頬に触れ、私の心臓が、波の音よりもずっと大きな音を立てて跳ねた。彼の指から、ほんのりと柑橘系の柔軟剤の香りが漂ってくる。

「……っ、自分でできるもん」

 私は慌てて顔を逸らし、赤くなりかけた頬を隠すように一歩前へと歩き出した。

「あ、夏海、待ってよ。砂浜、ヒールだと歩きにくいでしょ?」

 後ろから追いかけてくる彼の足音を聞きながら、私は心の中で深いため息をついた。

 彼はいつだってそうだ。私が不機嫌になりそうな時でも、ああやって無自覚に優しい手で触れてきたり、真面目な瞳でまっすぐに見つめてきたりする。そうされると、どうしようもなく胸が締め付けられて、怒る気すらどこかへ行ってしまうのだ。

 私、藤原夏海ふじわら なつみと、彼、佐々木透ささき とおるが知り合ったのは、千葉市内にある大学の軽音サークルだった。

 当時の透は、今よりもずっと人見知りでオドオドしていて、新入生歓迎会の飲み会でも、部屋の隅っこでちびちびとオレンジジュースばかり飲んでいるような地味な男の子だった。一方の私は、とにかくノリと勢いで生きてきたタイプ。見かねた私が「ちょっと、そんなとこで一人で飲んでないで、こっち来なよ!」と無理やり彼の手を引っ張って輪の中に入れたのが、すべての始まりだった。

 それからというもの、気がつけば私たちはいつも一緒にいるようになった。

 講義の空き時間に学食で時間を潰すのも、テスト前に図書館でノートを貸し借りするのも、休日にこうしてドライブに出かけるのも、隣には必ず透がいた。

 最初は、ただの「手のかかる気弱な男友達」だった。でも、彼の人を絶対に傷つけない穏やかさや、誰かが困っていると見過ごせない根っからの優しさに触れるうちに、私の彼を見る目は、いつしか明確な熱を帯びるようになっていた。

 気がつけば、大学を卒業して社会人になった今でも、私たちはこうして月に何度も二人きりで出かけている。

 周りの友人たちからは、「お前ら、絶対にもう付き合ってるだろ」「いつ結婚すんの?」なんて頻繁に冷やかされる。でも、透はその度に決まって「いやいや、俺たちはただの仲良い友達だから。夏海みたいな美人が、俺なんかを相手にするわけないじゃん」と、照れ笑いして全力で否定するのだ。

 その隣で、私も「そうそう、こいつはただの保護者みたいなもん!」と愛想笑いを浮かべて同調するしかないのだけれど、内心ではいつも、チクリと針で刺されたような痛みを味わっていた。

「……ねえ、透」

 砂浜を歩きながら、私は少し前を歩く彼の背中に声をかけた。

「ん? どうしたの?」

 透が振り返る。逆光になって、彼の顔が少しだけ陰って見えた。

「喉、渇いちゃった。あそこのキッチンカーで、何か冷たいもの買ってきてくれない? ほら、ライオン扱いしたお詫びとして」

 私が少し意地悪く言うと、透は苦笑いしながら「はいはい、わかりました。何がいい? いつものアイスティーでいい?」と聞いてきた。

「うん、お願い」

「了解。日陰のベンチで座って待ってて。ヒールで歩いて疲れたでしょ」

 透はそう言い残し、小走りでキッチンカーの方へと向かっていった。

 彼の背中を見送りながら、私は公園の隅にある大きな松の木の下のベンチに腰を下ろした。松の木が作る濃い日陰に入ると、ヒンヤリとした風が心地よかった。

 ベンチに座り、ぼんやりと海を見つめる。

 透の隣にいる時間は、まるで春の日向ぼっこをしているみたいに温かくて、間違いなく幸せだ。彼の気遣いはいつだって完璧で、私の好きな飲み物も、歩くペースも、全部わかってくれている。

 けれど、今の私が欲しいのは「なんでも分かっている親友」という安全圏から降り注ぐ光じゃない。彼にとっての、たった一人の「特別」になりたいのに。

 気弱で優しい透は、私が傷つくのも自分が傷つくのも恐れて、絶対に自分から『ただの友達』という一線を越えてこない。

 かといって、私から「好き」と伝えて、もし彼が本当に私のことをただの友達としか思っていなかったら? この心地よい関係すら壊れて、彼が離れていってしまうのではないかと思うと、怖くて私からも踏み出すことができないでいた。

 キッチンカーの前で、店員さんと何やら楽しそうに話しながらアイスティーを受け取っている透の姿が見える。

 どうして、あんなに優しくて、私のことを大事にしてくれるのに、肝心なことだけは言ってくれないんだろう。

 いつまでこのぬるま湯みたいな関係を続けるつもりなのだろうと、私は心の中で静かにやきもきしていた。

「お待たせ。はい、アイスティー」

 数分後、額にうっすらと汗をかいた透が戻ってきて、水滴のついた冷たいプラスチックカップを私の頬にピトッと当てた。

「ひゃっ! 冷たっ!」

「ははっ、涼しくなったでしょ」

 悪戯っぽく笑う透が、私の隣に腰を下ろす。

 カップを受け取ると、ストローから冷たい紅茶をひとくち吸い込んだ。アールグレイの爽やかな香りと、シロップの甘さが乾いた喉を潤していく。

「……美味しい。ありがとう」

「どういたしまして。……海、綺麗だね」

 透は自分の分のアイスコーヒーを飲みながら、まっすぐに水平線を見つめていた。

 彼の横顔は、出会った頃の頼りなかった少年の面影を残しつつも、しっかりと大人の男性の骨格になっている。スッと通った鼻筋、少し長めのまつ毛。見つめているだけで、胸の奥がきゅうっと苦しくなる。

「……ねえ、透」

「ん?」

「私たちって、いつまでこうして、二人で海に来るのかな」

 自分でも驚くほど、ポツリと、寂しげな声が出てしまった。

 透はコーヒーを飲む手を止め、少しだけ驚いたように私を見た。

「え? いつまでって……夏海が『もう海は飽きた』って言うまでじゃない? 俺は運転手として、いつでもどこでも連れて行くよ」

 透は、いつも通りの「優しい男友達」の顔で笑った。

 違う、そうじゃない。

 一生、連れて行ってほしいの。運転手としてじゃなくて、あなたの恋人として。

 喉まで出かかったその言葉を、私は冷たいアイスティーと一緒に、ゴクリと胃の奥へと飲み込んだ。

「……そう。じゃあ、おばあちゃんになっても運転手よろしくね」

「もちろん。安全運転でね」

 透がふわりと笑う。

 照りつけるような夏の太陽とは裏腹に、私の心の中には、もやもやとした焦燥感という名の雲が、どんよりと居座り続けていた。

 このもどかしい距離が、永遠に縮まらないような気がして。

 私はカップの氷をカラカラと鳴らしながら、透に気づかれないように、小さく、小さなため息をこぼしたのだった。

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