妻の直感
その夜。
子供たちは先に寝た。
リビングには、テレビの音だけが流れている。
ひろはソファに座っていた。
テーブルの上には、昼間にもらったクッキーがある。
妻が一つ食べた。
「おいしいね」
「うん」
「隣の人が作ったんだよね?」
「そう」
妻はもう一つ食べた。
「上手」
ひろは少し笑った。
しばらくして、妻が言った。
「ねえ」
「うん?」
「隣の人」
ひろは少しだけ身構えた。
「どうした?」
妻はテレビを見たまま言った。
「あなた、知ってる人?」
ひろは一瞬言葉に詰まった。
「え?」
「なんとなく」
妻はクッキーをもう一口食べた。
「そんな気がした」
ひろは少し笑った。
「初対面だよ」
「本当に?」
「うん」
妻は少し考えていた。
「でもさ」
「うん」
「あなたの顔」
ひろを見る。
「初めて会った顔じゃなかった」
ひろは何も言えなかった。
妻は続けた。
「似てるんじゃない?」
「何が?」
「昔の彼女」
ひろは驚いた。
「なんでそれ」
「なんとなく」
妻は笑った。
「女の勘」
ひろは少し黙った。
昔の彼女。
えいこ。
その名前を、久しぶりに頭の中で思い出す。
妻が言った。
「どんな人だったの?」
ひろは少し考えた。
「優しい人だった」
それが最初に出た言葉だった。
「四年付き合った」
妻は少し驚いた。
「長いね」
「うん」
テレビの音だけが流れる。
「でも、突然別れた」
妻が聞いた。
「なんで?」
ひろは首を振った。
「わからない」
それは、本当に分からなかった。
「ある日いきなり」
ひろは言った。
「好きじゃなくなったって」
妻は少し黙った。
「そんなのある?」
ひろは苦笑した。
「さあ」
妻はテーブルのクッキーを見た。
「でも」
「うん?」
「隣の人」
妻は言った。
「すごく似てるよね」
ひろは何も言えなかった。
実は。
それは。
自分が一番思っていることだったから。
妻は少し笑った。
「もし本人だったら面白いね」
ひろは思わず言った。
「それはない」
妻は聞いた。
「なんで?」
ひろは言った。
「えいこは」
少し間をおいた。
「もう、会わないって言ったから」
その言葉が、部屋に静かに落ちた。
妻はそれ以上聞かなかった。
ただ、クッキーをもう一つ食べた。
「でも」
小さく言う。
「女の勘って、結構当たるんだよ」




