現在
あれから十年が経った。
ひろは三十二歳になっていた。
朝六時。
目覚まし時計が鳴る前に目が覚める。
昔から、朝は早い。
布団から出て、カーテンを開ける。
窓の外は、まだ少し薄暗い。
住宅街は静かだった。
キッチンから音がする。
妻が朝ごはんを作っていた。
「おはよう」
「おはよう」
ひろはコーヒーを入れた。
妻は手際よくフライパンを動かしている。
「今日は早いね」
「目が覚めた」
そんな何気ない会話。
そこへ、リビングの奥から声がする。
「パパー」
長女だ。
まだ寝ぼけた顔で歩いてくる。
「おはよう」
「おはよう」
その後ろから、次男も出てくる。
まだ小さい。
寝ぐせのまま、ひろの足に抱きついた。
ひろは二人の頭を軽くなでた。
「顔洗ってこい」
「はーい」
朝ごはんは、四人で食べる。
トーストと卵焼き。
簡単な朝食。
でも、この時間がひろは好きだった。
会社へ向かう途中。
ひろはふと、家を振り返ることがある。
三年前に買った一軒家。
大きくはない。
ローンもまだ長い。
それでも、自分の家だった。
結婚したのは、七年前。
今の妻とは、会社の知り合いの紹介で出会った。
最初から強い恋だったわけではない。
でも、穏やかな人だった。
一緒にいると安心できた。
えいこと別れてからしばらくは、恋愛をする気にはなれなかった。
何年も、誰とも付き合わなかった。
仕事だけしていた。
でも、人は少しずつ前に進む。
今の妻と出会い、結婚し、子供が生まれた。
気づけば、今の生活が当たり前になっていた。
もちろん。
えいこのことを忘れたわけではない。
でも、思い出すことはほとんどなくなっていた。
時間が、静かに遠ざけてくれた。
少なくとも。
ひろはそう思っていた。
その日の夜。
ひろは仕事から帰ってきた。
夕飯を食べ、子供たちと少し遊ぶ。
妻は食器を洗っていた。
テレビの音が流れる、いつもの夜。
そのとき。
玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン。
ひろは立ち上がった。
「はーい」
玄関へ向かう。
ドアを開ける。
そこに立っていた女性を見て。
ひろの時間は。
一瞬だけ。
十年前に戻った。




