突然の別れ
それは、四年目の初夏だった。
ひろは仕事帰り、ポケットの中の小さな箱を何度も触っていた。
中には指輪が入っている。
何度も考えた。
言葉も考えた。
でも、まだ少し緊張していた。
アパートの階段を上がる。
部屋の灯りがついている。
えいこはもう帰っているらしい。
ドアを開けた。
「ただいま」
しかし、いつもの「おかえり」は返ってこなかった。
リビングに入ると、えいこがソファに座っていた。
テレビはついていない。
部屋は静かだった。
「どうしたの?」
ひろが聞くと、えいこはゆっくり顔を上げた。
「ひろ」
その声は、少しだけ硬かった。
「話があるの」
胸が、少しざわついた。
ひろはえいこの向かいに座った。
「どうした?」
えいこは少しだけ視線を落とした。
そして言った。
「別れよう」
ひろは、一瞬意味が分からなかった。
「え?」
えいこは続けた。
「もう、会わない方がいいと思う」
「なんで?」
言葉がうまく出てこない。
「急にどうしたんだよ」
えいこは何も答えなかった。
「何かあったの?」
「……ううん」
「じゃあなんで」
えいこは静かに言った。
「好きじゃなくなったの」
その言葉が、胸に落ちた。
でも。
どこか、嘘のように聞こえた。
「嘘だろ」
ひろは言った。
「四年だぞ」
えいこは何も言わない。
「何かあるなら言ってくれ」
沈黙。
部屋の時計の音だけが聞こえる。
「ひろ」
えいこは言った。
「ありがとう」
「……何が」
「今まで」
ひろはポケットの中の箱を握った。
本当は今日、渡すはずだった。
その未来は、もう消えていた。
「もう決めたの?」
ひろが聞く。
えいこはゆっくりうなずいた。
「うん」
その目は、少し赤かった。
でも涙はこぼれなかった。
その夜。
えいこは荷物をまとめた。
大きな荷物はほとんどなかった。
服と、少しの生活用品。
玄関の前で、えいこは振り返った。
「元気でね」
それだけだった。
ひろは何も言えなかった。
言葉が出てこなかった。
ドアが閉まる。
足音が階段を下りていく。
部屋は急に静かになった。
ひろはそのまま、しばらく動かなかった。
ポケットから小さな箱を取り出す。
開ける。
指輪が、静かに光っていた。
その夜。
ひろはほとんど眠れなかった。
そして。
そのまま。
えいことは、二度と会わなかった。
――十年後までは。




