十年越しのありがとう
それから数日後。
朝。
救急車の音が住宅街に響いた。
ひろは玄関を出た。
隣の家の前に救急車が止まっていた。
担架が運ばれてくる。
そこにいたのは。
えりだった。
目は閉じている。
ひろは思わず駆け寄った。
「榎本さん!」
えりはゆっくり目を開けた。
ひろを見た。
そして。
少し笑った。
「ひろ」
それが。
最後に聞いた声だった。
救急車のドアが閉まる。
サイレンが遠ざかっていく。
ひろはその場に立ち尽くしていた。
妻が後ろから来た。
「行こう」
ひろはうなずいた。
二人で病院へ向かった。
病院の廊下は静かだった。
医者が出てきた。
「残念ですが」
その言葉は短かった。
でも。
十分だった。
ひろは何も言えなかった。
医者は言った。
「これを預かっています」
封筒だった。
名前が書いてある。
ひろへ
ひろはゆっくり開けた。
手紙だった。
「ひろへ
突然いなくなってごめんなさい。
十年前、ちゃんと説明しなかったこと、
ずっと心残りでした。
本当は別れたくありませんでした。
でも、ひろの人生を止めたくなかった。
だから嘘をつきました。
あのときは本当にごめんなさい。
でも、この町に来てよかったです。
ひろが笑ってるのを見れました。
優しい奥さんと、かわいい子供たちと。
幸せそうで、本当に安心しました。
ひろはきっといいお父さんになると思ってたけど
本当にそうでした。
最後に少しだけ
みんなとしゃぼん玉ができて楽しかったです。
ありがとう。
私の大好きだった人が
幸せでよかった。
それが一番の幸せです。
えいこより」
手紙はそこで終わっていた。
ひろはしばらく動けなかった。
妻がそっと隣に立つ。
「いい人だったね」
ひろは小さくうなずいた。
涙が静かに落ちた。
その日の夕方。
庭で子供たちがしゃぼん玉をしていた。
大きなしゃぼん玉が空に浮かぶ。
長女が言った。
「おねえさんみたいにできた!」
ひろは空を見た。
しゃぼん玉が夕焼けの中で光っている。
そして。
静かに消えた。
ひろは小さくつぶやいた。
「ちゃんと幸せだよ、えいこ。」
それは。
十年越しの言葉だった。




