東京(出会い)
十年前。
ひろが東京に来たのは、二十二歳の春だった。
就職が決まり、地元を離れることになった。
駅のホームで、母が言った。
「体に気をつけなさいよ」
それだけだった。
父は来なかった。
もともと口数の少ない人だったし、別に仲が悪いわけでもない。ただ、こういうときに何を言えばいいのか分からない人だった。
ひろも同じだった。
「うん」
それだけ言って電車に乗った。
窓の外で母が手を振っている。
電車が動き出す。
それが、地元との距離ができた瞬間だった。
東京は、広かった。
人が多くて、速くて、どこか冷たい。
新しく入った会社は小さな海運会社だった。ひろは現場で働くことになり、朝は早く、帰りは遅かった。
仕事はきつかったが、それは別に嫌ではなかった。
ただ。
誰とも深く関わらない毎日だった。
会社と、アパートの往復。
休日は、洗濯と掃除をして終わる。
友達もいない。
恋人もいない。
誰かと電話することもない。
そんな生活が、一年ほど続いた。
ある日。
会社の帰り、ひろは小さな居酒屋に入った。
その日は仕事で失敗して、上司に怒られたばかりだった。
誰かに話すわけでもない。
ただ、酒を飲みたかった。
カウンターに座り、ビールを頼む。
店内は狭く、常連らしき客が数人いるだけだった。
ビールを一口飲んだとき。
「そこ、空いてますか?」
女性の声がした。
ひろは顔を上げた。
そこに立っていたのが、えいこだった。
二十代前半。
肩までの髪。
明るすぎない笑顔。
ごく普通の女性。
でも、なぜか目を引く人だった。
「どうぞ」
ひろは少し椅子をずらした。
「ありがとうございます」
えいこは隣に座り、店員に注文した。
「生ビールください」
そして、ひろの方を見て笑った。
「ここ、よく来るんですか?」
「いえ、今日が初めてです」
「あ、そうなんだ」
えいこは少し笑った。
「私もです」
二人は少しだけ黙った。
気まずい沈黙。
ひろは、こういうときに何を話せばいいのか分からない。
すると、えいこが言った。
「仕事帰りですか?」
「はい」
「お疲れさまです」
そう言って、ビールが来ると軽くグラスを上げた。
「乾杯」
ひろも、つられてグラスを上げた。
「乾杯」
ビールを一口飲む。
えいこは、ふっと息をついた。
「はあ。生き返る」
その言い方が、妙におかしくて。
ひろは思わず笑った。
えいこは驚いた顔をした。
「今、笑いましたね」
「え?」
「さっきから全然笑わない人だなって思ってたんです」
「そうですか」
「でも笑うんですね」
えいこは嬉しそうに言った。
「よかった」
「何がですか」
「怖い人じゃなさそうで」
ひろはまた笑った。
気づけば、会話は自然に続いていた。
仕事のこと。
東京のこと。
地元のこと。
話しているうちに、ひろは不思議な感覚になっていた。
この人とは、初めて会ったはずなのに。
なぜか、昔から知っているような気がする。
店を出たとき、夜風が少し冷たかった。
「今日はありがとうございました」
えいこが言った。
「こちらこそ」
「また会えるといいですね」
その言葉を聞いたとき。
ひろは、なぜか思った。
きっとまた会う。
理由は分からない。
でも、そう思った。
そして。
二人は、本当にまた会うことになる。
それが、ひろの人生で
一番長く続いた恋の始まりだった。




