妻の言葉
その夜。
子供たちはもう寝ていた。
リビングには柔らかい照明だけがついている。
妻はソファに座り、スマートフォンを見ていた。
ひろはキッチンでコーヒーを入れる。
カップを二つ持って戻った。
「どうぞ」
「ありがとう」
妻は一口飲んだ。
「ブラック?」
「うん」
そのとき。
妻がふと聞いた。
「今日、隣の人と話した?」
ひろは少し驚いた。
「なんで?」
「昼間見えた」
妻は笑った。
「窓から」
ひろは少し苦笑した。
「井戸端会議みたいなもん」
「ふーん」
少し沈黙があった。
妻が言う。
「どう思った?」
「何が?」
「隣の人」
ひろは少し考えた。
「やっぱり似てる」
正直に言った。
妻はうなずいた。
「私も思う」
ひろは妻を見る。
「初めて会ったときから?」
「うん」
妻はカップを置いた。
「顔も似てるけど」
「うん」
「雰囲気」
ひろは黙った。
妻は続ける。
「なんていうか」
「うん」
「あなたを見る目」
ひろの胸が少しだけざわついた。
「普通の隣人の目じゃない」
静かな言い方だった。
「どういう意味?」
妻は少し考えた。
「確認してる感じ」
ひろは思い出した。
昼間の言葉。
“幸せになりました?”
あの質問。
妻が言った。
「もしさ」
少し笑いながら。
「本人だったらどうする?」
ひろはすぐに答えられなかった。
しばらく考えてから言った。
「ありえない」
「なんで?」
「えいこは」
言葉が少し止まる。
「もう会わないって言ったから」
妻は少し黙った。
それから、静かに言った。
「それ」
「うん?」
「理由にならないよ」
ひろは顔を上げた。
妻は優しく笑った。
「人ってさ」
「うん」
「十年あれば、いろいろ変わる」
その言葉は、妙に現実的だった。
「名前も」
「うん」
「住む場所も」
そして。
妻は言った。
「人生も」
ひろは何も言えなかった。
妻は最後に言った。
「でも」
「うん?」
「もし本当にその人だったら」
少し笑う。
「ちゃんと話したほうがいいよ」
ひろは聞いた。
「なんで?」
妻はコーヒーを飲んでから言った。
「だって」
静かな声で。
「四年も好きだった人なんでしょ」
その言葉は。
ひろの胸の奥に、静かに落ちた。




