二人きり
その日。
ひろは仕事が休みだった。
子供たちは学校と保育園。
妻は買い物に出かけている。
昼前の住宅街は静かだった。
ひろは庭で植木に水をやっていた。
ホースを止めると、隣の家の窓が開いた。
「こんにちは」
えりだった。
「こんにちは」
えりは外に出てきた。
手にはマグカップを持っている。
「いい天気ですね」
「そうですね」
少し沈黙が流れた。
ひろは思い切って言った。
「榎本さん」
「はい?」
「前から思ってたんですけど」
えりは静かに聞いていた。
「どこかで会ったことありませんか?」
えりは少しだけ笑った。
「よく言われます」
「そういう意味じゃなくて」
ひろは言葉を選んだ。
「昔、似てる人がいたんです」
えりの表情は変わらなかった。
「そうなんですね」
「すごく似てる」
ひろは言った。
「笑い方も」
えりは少しだけ目を細めた。
「その人」
「うん?」
「大事な人でした?」
ひろは少し考えた。
「そうですね」
言葉を探す。
「たぶん」
「たぶん?」
「人生で一番好きだった人かもしれない」
えりは何も言わなかった。
風が少し吹いた。
えりはマグカップを持ったまま、ゆっくり言った。
「幸せになりました?」
その質問は、少し不思議だった。
ひろは答えた。
「今は」
えりはうなずいた。
「よかった」
その言い方が、妙に引っかかった。
まるで。
それを確認するために聞いたみたいだった。
ひろは思わず言った。
「榎本さん」
「はい」
「もし」
えりを見る。
「もし、その人だったら」
えりの目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
でもすぐに笑った。
「違いますよ」
ひろは黙った。
えりは続けた。
「ただの隣人です」
そして少しだけ空を見上げた。
「でも」
小さく言う。
「その人が幸せなら」
ひろは聞いた。
「うん?」
えりは微笑んだ。
「それでいいと思います」
その言葉を聞いたとき。
ひろは、はっきり思った。
この人は。
何かを知っている。
そして。
何かを隠している。




