チャイム
日曜日の夕方だった。
ひろはリビングのソファに座り、ぼんやりとテレビを眺めていた。
画面ではバラエティ番組の笑い声が流れているが、内容はほとんど頭に入ってこない。キッチンでは妻が夕飯の準備をしていて、包丁がまな板を叩く音が小気味よく響いていた。
そのとき。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
「はーい」
ひろは立ち上がり、玄関へ向かった。
新しく買ったこの家に住み始めて三年。隣の家はしばらく空き家だったが、数日前から引っ越しのトラックが来ていたのを思い出す。
たぶん、新しい隣人だろう。
ドアを開けた。
そこに立っていた女性を見た瞬間、ひろは言葉を失った。
胸が、ドクンと強く鳴る。
女性は三十代半ばくらいだろうか。落ち着いた服装で、長い髪を後ろでまとめている。どこにでもいそうな、ごく普通の女性。
なのに。
あまりにも似ていた。
十年前に別れた、あの人に。
えいこに。
女性は軽く頭を下げた。
「こんばんは。隣に引っ越してきました、榎本と申します」
その瞬間。
ほんの一瞬だけ。
女性の表情が止まった。
目が、ひろの顔を見たまま固まる。
しかし、それは一瞬だった。
すぐに柔らかな笑顔に戻る。
「これからよろしくお願いします」
ひろは、慌てて頭を下げた。
「あ、こちらこそ。川上です」
声が少し裏返った気がした。
女性――榎本は、小さく笑った。
「ご挨拶だけと思って。急にすみません」
「いえ、全然」
言いながら、ひろは胸の奥がざわつくのを感じていた。
似ている。
顔も、声も。
それだけじゃない。
笑ったとき、少しだけ目尻が下がる癖まで。
まるで――
そのとき、家の奥から声が聞こえた。
「パパー!」
長女の声だ。
続いて、次男の笑い声も聞こえる。
榎本は家の中へちらりと視線を向けた。
「お子さん、いらっしゃるんですね」
やさしい声だった。
「ええ、二人います」
榎本は少しだけ目を細めた。
その表情は、どこか安心したようにも見えた。
「いいですね。にぎやかで」
そう言って、手に持っていた小さな袋を差し出した。
「つまらないものですが」
「ありがとうございます」
袋を受け取りながら、ひろはまた思う。
本当に似ている。
十年前の、あの人に。
榎本はもう一度頭を下げた。
「それでは、今日はこれで」
「あ、はい」
女性は数歩下がり、振り返った。
そして少しだけ間を置いて言った。
「……お隣なので」
その言葉のあと、ふっと笑う。
「これから、よろしくお願いします」
そう言って、隣の家へと歩いていった。
ドアが閉まる音がした。
ひろはしばらく玄関に立ったままだった。
「パパー?」
娘が顔を出す。
「誰だったの?」
「隣の人だよ」
「へえ」
娘はすぐにリビングへ戻っていった。
ひろは手の中の袋を見つめた。
胸の奥に、十年触れていなかった記憶がゆっくりと浮かび上がってくる。
まさか。
そんなはずはない。
でも。
あまりにも、似ている。
ひろは静かにドアを閉めた。
隣の家の窓には、もう明かりが灯っていた。
その光を見ながら、ひろは思う。
十年前の恋の記憶が、
こんな形で戻ってくるなんて。
想像もしていなかった。




