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東京理科大学 森下教授③

 2020年8月28日 午後。神楽坂・東京理科大学の研究室。


 平河町での会見から約二週間。森下の研究室の電話は、鳴り止むことがなかった。

「先生、あの会見を見て安心しました」「これでようやく店を開けられます」 国民からの感謝の声に、森下は珍しく穏やかな表情で応じていた。

 伊部総理からも、近いうちに具体的な「出口戦略」について協議したいという非公式の連絡が入っている。


「……正義は、時に勝つこともあるんだな」


 森下がそう独り言ちて、次の論文の資料を整理しようとした、その時だった。

 研究室の隅に置いていた小型テレビから、不自然に高い電子音が鳴り響いた。


『――速報です。伊部総理大臣は、本日午後、総理官邸で記者会見を開き、辞任する意向を固めました』


 森下の手から、万年筆が滑り落ちた。画面の中では、アナウンサーが緊張した面持ちで原稿を読み上げている。


『理由は、持病の悪化による健康上の問題とのことです。突然の退陣表明を受け、永田町には衝撃が広がっています……』


 森下は呆然と画面を凝視した。持病? 健康上の理由?つい先日、電話で話した時の伊部の声は、確かに疲弊してはいたが、未来への活力を取り戻していたはずだ。なにより、日本を救うデータが揃い、これからという時に、なぜ。


「……嘘だろ」


 嫌な予感は、その日の夜には確信に変わった。伊部の退陣が報じられるやいなや、メディアの空気は一変した。昨日まで森下の「集団免疫」を報じていたニュース番組は、手のひらを返したように「指導者不在の危機」を煽り、それに対する唯一の解決策として、まだ治験すら終わっていない海外製ワクチンの有効性を説き始めた。

 森下が提出したレポート、あの平河町での会見――。それらは、まるで最初から存在しなかったかのように、ワイドショーのタイムラインから消し去られていった。

 それどころか、ネット上には森下を中傷する声が溢れ出す。


『あの教授のデータは根拠が薄い』


『楽観論を振りまいて国民を危険に晒した』


 巧妙に仕組まれた「専門家」たちによる否定コメントの数々。

 数日後。森下のもとに、厚労省の若手官僚から短いメールが届いた。


『森下先生、申し訳ありません。……上の顔ぶれが完全に変わりました。先生のプロジェクトは、すべて凍結です』


 森下は、暗い研究室で一人、窓の外の夜景を眺めた。伊部という防波堤を失った日本に、巨大な「利権の波」が押し寄せようとしている。人々は恐怖に駆られ、自ら進んで「免疫の檻」に入ろうとするだろう。

 森下はパソコンの電源を落とした。彼の頭の中には、すでに新しい計画が芽生えていた。

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