東京理科大学 森下教授②
ダイヤモンド・プリンセス号の混乱が頂点に達していた二月。
森下は伊部総理の指示を受け、厚生労働大臣と対峙していた。広い大臣室の空気は、消毒液の匂いよりも、どこか古びた紙の匂いが勝っている。
「以上が新型コロナウイルスについての私の見解です」
森下は熱を込めて説いた。しかし、目の前の大臣は、時折手元の時計に目をやりながら、事務的な相槌を打つだけだ。
「先生の仰ることはわかります。……ですが、我々には我々の『手順』というものがありましてね」
科学者の情熱が、官僚機構の「前例踏襲」という名の壁に跳ね返される。森下はその時、背筋に走る言いようのない寒気を感じていた。
その日の午後、森下は外務省の回線を通じ、中国武漢市の防疫部隊ヘッドとのオンラインミーティングに臨んだ。画面に映し出された男の目は赤く充血し、極限の疲労を物語っている。
「……日本の教授、よく聞いてくれ」
通訳を介した男の声は低く、重かった。
「我々はこの悪夢から学んだ。このウイルスに、一つの物差しで挑んではならない。我々は現在、三点セットで診断を行っている」
男が指を折る。
「一つ、PCR検査。一つ、抗体検査。そして三つ目、もっとも重要なのがCTによる画像診断だ。肺炎の有無を視覚的に捉えなければ、このウイルスの実態は掴めない」
森下は手帳にペンを走らせる。だが、男の次の言葉に、森下の手が止まった。
「PCR検査だけに頼るな。それは大きなミスリーディングを招く。陽性という数字だけが一人歩きすれば、社会はパニックに陥り、医療は不必要なリソースを割かれ、崩壊するだろう。PCRはあくまで補助だ。いいか、絶対に独り歩きさせるな」
男の警告は、地獄を見てきた者特有の切実さに満ちていた。
それから数日で森下は、武漢からの情報と自身の知見を統合し、百ページに及ぶ提言書を作成した。
「日本はPCR・抗体・画像診断の三柱でいくべきだ。そうでなければ、健康な人間を病人に変え、経済を殺すことになる」
彼はそのレポートを「伊部総理直通」として官邸へ提出した。
2020年6月、梅雨の合間の蒸し暑い午後。森下は、都内で募集したボランティア400人の採血現場に立ち会っていた。世間ではPCRの陽性者数に一喜一憂し、自粛警察が街を練り歩く異常事態。だが、森下が目の当たりにしたデータは、その喧騒をあざ笑うかのように静かで、力強かった。
「……やはりそうだ。日本人は、とっくに『持っていた』んだ」
解析結果は驚くべきものだった。多くの被験者の体内に、新型ウイルスを無効化する強力な免疫応答が確認されたのだ。それは、過去に流行した「旧型コロナ」との交差免疫。日本人は、知らないうちにこの新型に対する「盾」を、歴史の中で手に入れていた。
森下は震える手でレポートをまとめた。
「日本は、欧米のようなロックダウンも、過度な自粛も必要ない。私たちはすでに、集団免疫の入り口に立っている」
2020年8月初旬 総理官邸・執務室
伊部総理は、森下のレポートを食い入るように見つめていた。その顔には、数ヶ月ぶりに血色が戻っている。
「先生……これは、確かですか?日本は何もしなくてよかった、ということでいいんですね?」
「はい。データが証明しています。これ以上、国民の生活を殺す必要はありません」
傍らにいた厚労大臣も、深く頷いた。
「これで、ようやく出口が見える。……先生、この結果をすぐに公表してください。平河町のホテルを用意させます。政府の公式な見解として、会見を開くんだ」
希望だった。科学が政治を動かし、日本を正しい道へ引き戻す。森下は、自分の使命が果たされるのを確信していた。
2020年8月13日 平河町・砂防会館周辺ホテル
凄まじい数のフラッシュが、森下の視界を真っ白に染めた。テレビカメラの放列、ノートを走らせる記者たちの熱気。森下は演台に立ち、淡々と、しかし力強く真実を語った。
「――日本における交差免疫の存在が確認されました。私たちは、このウイルスに対して不必要に怯える段階を過ぎています」
翌日の新聞、ニュース。メディアは一斉にこれを報じた。
「日本、集団免疫の可能性」という見出しが躍り、国民の間に安堵の空気が広がった。政府もこの認識を共有し、コロナ騒動はここで収束する……はずだった。




