東京理科大学 森下教授①
2020年、1月。
森下教授は、顕微鏡から目を離し、冷え切ったコーヒーを一口啜った。窓の外、神楽坂を往来する人々はまだ、数千キロ先の武漢で起きている異変を「対岸の火事」だと思っている。だが、森下の手元にあるデータは、全く別の未来を示していた。
「……ただの風邪じゃない。これは、肺の深部を狙い撃ちにする『肺炎誘導装置』だ」
彼は即座に筆を執った。このウイルスは爆発的な感染力を持ち、放置すれば医療体制を根底から破壊する。森下は、旧知の仲である時の総理大臣・伊部へのダイレクトラインを動かした。
「森下先生、大げさですよ」
伊部総理は、届けられたレポートをパラパラと捲り、苦笑いと共にテーブルに置いた。傍らに控える官僚たちも、鼻で笑うような空気を隠そうともしない。
「インフルエンザの方がよっぽど死者は多い。今、過剰な反応をして経済を止めれば、それこそ国難だ。……厚労省の連中も、『水際で止められる』と言っています」
森下の警告は、官邸の分厚い絨毯に吸い込まれ、消えた。
政府にとって、森下は「少しばかり理屈っぽい、心配性の科学者」に過ぎなかったのだ。
しかし、状況が一変したのは、それからわずか数週間後のことだった。
豪華客船『ダイヤモンド・プリンセス号』。霧の向こうに佇む巨大な船体は、もはや優雅なレジャーの象徴ではなく、三千人以上の人間を乗せた「巨大な密室の培養皿」へと変貌していた。
テレビ画面に映し出される防護服の群れを見て、伊部総理はついに森下に電話を入れた。その声は、かつての余裕を失い、かすかに震えていた。
『――森下先生。……あの日、あなたが言った通りになった』
受話器を握る森下の視線の先には、真っ白なレポートが置かれている。
「総理、遅すぎましたが、まだ打てる手はあります。……今すぐ、専門家の知見をすべて集約すべきだ」
『わかった。すぐに厚労大臣と話してくれ。それから……外務省を通して、中国の現場の人間とも繋ぐ。……頼む、先生。日本を救ってくれ』




