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工藤駿①

 練馬駐屯地、午前五時三十分。

 朝靄あさもやが立ち込めるグラウンドに、規則正しい足音が響く。


「……九十八、九十九、百!」


 工藤駿(くどう しゅん)は、最後の一回を終えて地面に手をついた。全身から立ち上る湯気が、冷ややかな朝の空気に溶けていく。


「工藤三曹、相変わらず飛ばしますね……」


 隣で息を切らしている後輩の佐野が、膝を笑わせながら呟いた。


「体を動かしておかないと、いざという時に動けんぞ。俺たちの仕事は、誰かが絶望している場所に一番乗りすることなんだからな」  


 工藤は爽やかな笑みを浮かべ、佐野の肩を叩いた。


 工藤が自衛隊を志したのは、十年前の震災がきっかけだった。泥の中から自分を救い出してくれた、汚れ一つない自衛官の指先。あの時感じた「守られている」という圧倒的な安心感を、今度は自分が誰かに与えたい。その一心で、彼はこの組織で己を磨いてきた。


 隊舎に戻り、朝食を摂りながら食堂のテレビに目を向ける。画面には、昨夜から続く「新宿・戸山の火災」のニュースが流れていた。


「また新宿か。最近物騒だな」


 佐野が納豆をかき混ぜながら言う。


「……火災だけじゃないみたいだぞ。検問所が設置されてる。それに、あの防護服の数……」


 工藤の目は、画面の端に映った光景に釘付けになった。救急車から運び出される患者を、自衛官ではなく、見たこともない黒塗りの車両の一団が「回収」している。その時、食堂内にけたたましい非常呼集のサイレンが鳴り響いた。


「総員、直ちに装具を装着! 営庭に集合せよ!」


 スピーカーから響く上官の怒号。いつもとは明らかに違う、張り詰めた空気。

 工藤は即座に立ち上がり、迷彩服の襟を正した。


「工藤三曹、災害派遣ですかね?」


「……わからん。だが、武器の携行命令が出ている。ただの災害じゃない」


 十五分後。営庭に整列した工藤たちの前に、連隊長が現れた。その顔は、これまで見たことがないほど強張っている。


「これより本部隊は、新宿区周辺の『警戒封鎖任務』に就く。任務は二つ。指定エリアからの民間人の流出を阻止すること。そして、エリア内の秩序を維持することだ」


「連隊長!」


 工藤が思わず一歩前に出た。


「民間人を『阻止』とは、どういう意味でしょうか。救助ではなく、隔離が主目的ということですか?」


 連隊長は一瞬、工藤の目を避けるように視線を落とした。


「……これは竹内総理直々の命令だ。新宿で発生した感染症は、日本の存立を脅かす。一歩でも外に漏らせば、日本は終わる。いいか、工藤。これは『戦争』だ。相手は見えないウイルスであり、そして……それを運ぶ可能性のある、すべての個体だ」


 個体。その無機質な響きに、工藤の胸の奥で、正体不明の嫌な予感が走った。自分が守るべき「国民」を、今日から「個体」として監視しなければならないのか。


「出発だ! 車両に乗り込め!」


 工藤は、重い小銃の感触を確かめながら、大型トラックの荷台に飛び乗った。走り出した車両の窓から、遠くに新宿のビル群が見える。朝日を浴びて輝くその街が、巨大な墓標のように見えた。


 工藤駿、二十七歳。

 この時、彼はまだ信じていた。自分の振るう力が、この国の人々を救う正義であることを。

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