神原リサト ①
新宿歌舞伎町 午前0時。
この街の夜は、どれほど世界が病んでいても、毒々しいほどに明るい。
「リサトさーん、三番テーブルのフォローお願いします! お客さん、ちょっと酔いが回ってて……」
「了解。五分で機嫌直してくるから、冷たいおしぼり三本用意して」
神原リサトは、控室の鏡に向かってパンプスを履き替えた。
キャバクラ『ラビリンス』の売れっ子として、彼女は完璧な「リサト」を演じている。明るくて、気が利いて、どんな客の愚痴も笑って受け流す。
だが、メイクを完璧に仕上げるほど、彼女の心には「自分はここにいない」という奇妙な感覚が広がっていた。
「……リサトちゃん、見てよ。やっと三回目終わったんだ。これでやっと、銀座の店にも顔出せるわ」
三番テーブルにつくやいなや、不動産会社の常連客が、誇らしげにスマートフォンを突き出してきた。画面に表示された接種証明アプリ。その緑色のチェックマークは、この社会における「まともな人間」の証に見えた。
「わあ、さすが社長! 仕事が早いですね。副反応は大丈夫でした?」
「いや、丸一日寝込んだよ。でもまあ、安心を買うようなもんだからな。リサトちゃんも、当然もう済んでるんだろ?」
リサトの笑顔が、一瞬だけ硬直する。
「……私は、その、ちょっとタイミングを逃しちゃって。不器用なんですよ、私」
軽やかな冗談でかわしながら、リサトは喉の奥に苦いものがこみ上げるのを感じた。
嘘ではない。彼女は、打ちたくなかったわけではない。むしろ、誰よりも「打ちたかった」のだ。
三年前。進学先を巡って、教育一家である両親と決定的に決裂した。
『お前の代わりなど、いくらでもいる。美雪を見習いなさい』
優秀な妹と常に比較され、最後には「恥さらし」として戸籍上も精神的にも切り捨てられた。住民票も移さず、逃げるように辿り着いたこの街。夜の仕事で食い繋ぐリサトのもとには、行政からの通知は届かない。どこへ行けば助けてもらえるのか。窓口へ行って「住所不定のキャバ嬢です」と名乗れば、またあの軽蔑に満ちた両親の視線にさらされるのではないか。
日々の生活に追われ、社会のシステムからこぼれ落ちた彼女にとって、その「当たり前の証明」は、手に入れたくても手の届かない高嶺の花だった。
(私だけが、まだあっち側に行けていない)
店内のテレビが、唐突にバラエティ番組を中断した。画面には、赤く点滅する『緊急ニュース』の文字。
「……ねえ、何これ。火事?」
キャストの一人が呟いた。
画面に映し出されたのは、新宿区戸山。国立感染症研究所の周辺が、見たこともない数のパトカーと、そして――重厚な塗装を施された自衛隊の車両によって包囲されていく様子だった。
「――現在、新宿区戸山地区を中心に、極めて致死率の高い未知の感染症が確認されました。政府はただちに災害派遣要請を出し……」
アナウンサーの声が、不自然に震えている。その瞬間、店の外から、地響きのようなサイレンが鳴り響いた。靖国通りを埋め尽くす自衛隊のトラック。それらは救援のためではなく、まるで獲物を閉じ込める檻を作るかのように、新宿の境界線に沿って整列していく。
客たちがパニックに陥り、スマホを手に立ち上がる。
リサトは、窓の外を見た。歌舞伎町のネオンはまだ輝いている。けれど、彼女の心は警鈴を鳴らし始めていた。
社会から拒絶され、疎外され続けてきたリサト。
彼女が唯一抱えていた「欠落」――ワクチン未接種という空白の体が、この地獄においてどんな意味を持つのか。新宿が巨大な「培養地」と化すその直前、リサトはただ、震える手でカウンターの縁を掴んでいた。




