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プロローグ

 新宿駅の喧騒は、地下深くまでは届かない。地下鉄大江戸線のさらに下、一般の地図には決して載ることのない大深度。湿ったコンクリートの臭いと、焦げた鉄の匂いが混じり合う空間で、佐藤は溶接機の火花を散らしていた。


「……よし、これで三枚目だ」


 目の前には、およそ地下鉄の防水扉とは思えないほど分厚い特殊合金の隔壁があった。厚さ五十センチ。放射線遮蔽材まで充填されたその「扉」は、まるでこれから起こる地獄を想定して、あらかじめ新宿という街を切り離すために用意された断頭台の刃のように見えた。


「おい佐藤、手止まってんぞ」


 現場監督の荒木が、ヘルメットの下の汗を拭いながら声をかけてきた。

 佐藤は遮光マスクを上げ、薄暗いトンネルの先を見つめる。そこには同じような巨大な隔壁が、迷路のように入り組んだ新宿の地下通路の要所に、着々と設置されていた。


「これ、本当に浸水対策なんですかね。この深さで水害なんて、まずありえないでしょう」


「余計なことは考えるな。これは『国』の仕事だ。俺たちは図面通りに組めばいい」


 荒木はそう言い捨てると、手元のタブレットを確認して顔を上げた。


「今日はもう上がりだ。あとの溶接は明日の班に回せ」


「えっ、まだ十五時ですよ。工期、カツカツじゃなかったんですか?」


 普段なら「死んでも終わらせろ」と怒鳴るはずの監督の言葉に、佐藤は耳を疑った。荒木はどこか事務的な、それでいて逃げ場のない視線を佐藤に向ける。


「上の指示だ。……これから全員、都庁の特設会場へ向かう。ワクチンの三回目だ。職域接種の枠が、ちょうどこの時間にねじ込まれたんだよ」


 佐藤は一瞬、言葉を失った。世間では新しい感染症の恐怖が煽られ、誰もが救いを求めるように腕を差し出している。だが、自分たちが今作っているこの「異常なほど頑丈な檻」と、国民全員に急がれる「接種」。その二つが、佐藤の頭の中で不気味に共鳴した。


「……任意、じゃないんですか?」


「佐藤」


 荒木の声が一段低くなった。暗がりのなかで、監督の瞳だけが異様に光って見えた。


「この現場に入るとき、誓約書を書いただろ。ここは聖域だ。ここで働く者は、常に清潔で、管理された人間でなきゃならん。……拒否するなら、今すぐここを降りろ。ただし、明日からの仕事も、これまでの給料も保証はせんぞ」


 換気扇の回る虚しい音だけが、地下通路を吹き抜けていく。

 佐藤は自分の震える指先を隠すように、作業手袋を強く握りしめた。


「……わかってます。行きますよ、打てばいいんでしょ」


 地上では、何も知らない人々が新宿の街を謳歌している。歌舞伎町のネオンの下、人々がグラスを交わし、笑い合っているその足元で。逃げ場のない「処理場」の完成と同時に、彼らの体内に「時限爆弾」が仕込まれようとしていることなど、知る由もなかった。


 2021年、夏。

 新宿の地下に、最初の楔が打ち込まれた。

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