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東京理科大学 森下教授⑤

 2021年初頭 森下研究室。


 研究室の窓の外では、季節外れの雪が舞っていた。

 机の上には、厚労省から送られてきた「新型特例承認」に関する分厚い資料。森下はそれを一頁ずつ、まるで有害な汚染物質でも見るかのような冷徹な視線で読み進めていた。


「……先生、政府はこれを『人類の叡智』と呼んでいます。遺伝子の設計図を直接打ち込んで、体内で抗体を作る。これ以上の効率はないと」


 震える声で話すのは、例の若手官僚だ。だが、森下は資料から目を離さず、短く切り捨てた。


「効率がいいのは、『細胞を殺すこと』に関してだ。これはワクチンじゃない。……設計された暗殺者だ」


「暗殺……? 何を言っているんですか」


 森下はペンを執り、ホワイトボードに細胞の絵を描いた。


「いいか、このmRNAという遺伝子情報が細胞内に入ると、細胞は命令通りに『スパイクタンパク』を作り始める。問題はそのスパイクの性質だ。こいつは細胞の表面、つまり細胞膜の上に整列する性質を持っている。ウイルスの膜と細胞の膜は構造がほぼ同じだからな。……つまり、スパイクを作った細胞は、その外見がウイルスそっくりに書き換えられるんだ」


 森下は細胞の周りに、それを取り囲む「抗体」を描き足した。


「ここからが悲劇の始まりだ。体内で抗体が誘導される。すると免疫系はこう判断する。『おい、この細胞の表面に敵の(スパイク)が出ているぞ。こいつはウイルスに感染した異常な細胞だ』とな。……そうなれば、自分の免疫系が、スパイクを出している自分の細胞を一斉に攻撃し始める。……『自己攻撃』だよ」


 森下のペンの先が、ホワイトボードを強く叩いた。


「このmRNAは血管を通って全身にばら撒かれる。特に血管の壁……内皮細胞にスパイクが出てきたらどうなる? 免疫細胞がそこをズタズタに破壊する。血管が壊れれば、そこを修復しようとして血の塊……血栓ができる。それが脳で起きれば脳梗塞、心臓で起きれば心筋梗塞だ。仕組みは極めてシンプルで、そして逃げ場がない」


 若手官僚は顔を青ざめさせ、言葉を失った。


「先生……なぜ、そんなことが断言できるんですか。まだ世界中で始まったばかりなのに」


「……わかるさ。私は、これと全く同じ仕組みを、一生かけて研究してきたんだからな」


 森下は、自らの古い研究論文を机に叩きつけた。そこには『抗体医薬品による(ガン)細胞の破壊機序』と記されていた。


「私は、抗体を使って癌細胞を効率よく仕留める研究をしていた。癌細胞の表面に標的を作り、そこに免疫を誘導して叩き潰す。……今回、国民に打とうとしているものは、その癌治療の仕組みを、健康な人間の全身の細胞に応用したものだ。癌細胞を殺すための武器を、なぜ健康な人間に向けた? スパイクタンパクで免疫を誘導してはいけないことなど、基礎研究をしていれば誰でもわかるはずだ。……これは科学の暴走じゃない。確信犯による虐殺だ」


 森下の眼光は、暗い研究室の中で獣のように鋭く光っていた。彼が気付いたのは、単なる薬害ではない。「救済」という美しい言葉の裏に隠された、人体そのものを戦場に変えるという、悪魔的な設計図だった。


「……彼らは、日本人の体を、自分自身を攻撃する時限爆弾に変えようとしている」


 若手官僚は、絞り出すような声で問いかけた。


「……先生。もし、その『自己攻撃』の仕組みがそれほど明白なら、なぜ他の免疫学の権威たちは何も言わないんですか? 日本には他にも高名な教授が山ほどいる。彼らだって、気づくはずじゃないですか」


 森下は、冷めたコーヒーを飲み干し、力なく笑った。


  「君は『専門家』という人種を買い被りすぎている。今の医学界は、巨大な迷路のようなものだ。自分の担当する角の、そのまた数ミリ先しか見ていない。……全体像を俯瞰して、免疫のパズルを完成させられる人間なんて、この国にほとんどいないんだよ」


 森下は、一枚の集合写真を取り出した。学会の重鎮たちが並んでいる。


「ここに写っている『権威』たちも、一回目はこぞって接種したよ。国が認め、製薬会社が推奨した、最新のテクノロジーだとな。だが――」


 森下が、先日行われた非公式の勉強会での出来事を語り始めた。


「彼らに説明したんだ。スパイクの遺伝子が細胞内に入り、細胞膜に敵の印を並べ、自分の抗体が自分の細胞を破壊する……私が癌治療で使ってきた、あの冷徹な仕組みをな。……説明が終わった瞬間、教室は静まり返った。さっきまで饒舌だった教授たちが、みるみる青ざめて、自分の打たれた腕を無意識に抑えていたよ。……彼らは、その時ようやく気づいたんだ。『自分が何を打ったのか』ではなく、『自分の体の中で何が起きるのか』をな」


「気づいていたのに……なぜ止めないんですか」


「『厚労省が認可したものだから』だよ」


 森下の声が、重く響いた。


「彼らにとって、政府の認可は聖書と同じだ。まさか、国が国民の体を壊すようなものを承認するはずがない。そう信じ込むことで、自分の専門知識に蓋をしたんだ」


 森下は立ち上がり、ホワイトボードの隅に『マニュアル化』という言葉を書き殴った。


「いいか。今の医者は、ワクチンや免疫の本質を勉強なんてしていない。彼らがやっているのは『医学』ではなく『作業』だ。この病気にはこの薬、この症状にはこの処置……すべてが100%マニュアル化されている。彼らはそのマニュアルから一歩でも外れることを病的に恐れる。……自分の頭で考え、リスクを予見する能力は、とうの昔に退化してしまったんだよ」


 若手官僚は、目の前の絶望的な構図に目眩(めまい)を覚えた。国を動かす役人も、命を救うはずの医師も、誰もが「誰かが決めたマニュアル」の歯車として、国民を崖っぷちへと押し流している。


「……彼らは、仮にこれから町で誰かが倒れても、マニュアル通りに診断し続けるだろう。それが、自分たちが打ち込んだ種火が燃え上がった結果だとは、死んでも認めないはずだ」


 森下はホワイトボードを黒く塗りつぶした。

 その黒い塊は、数年後の新宿を飲み込む、あのどす黒い絶望の影そのものだった。

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