水滴の知らせ
歩きながら見ていたスマホの画面に、水滴が落ちる。
垂水 凛 は、大きな入道雲がもくもくと湧いた空を見上げた。
イヤになるほど真っ青に晴れ渡っている。
雨が降ってきたわけではないようだ。
キュッと親指で水滴を拭いて、もういちど画面を見る。
こんどは、ポタ、ポタ、と手の上に水滴が落ちた。
「なにこれ」
怪訝に思い、周囲を見回す。
水まきをしている人でもいるのかと思ったが違うようだ。
昭和のころからある郊外の住宅街。
高度成長期に広大な畑をつぶして家が建てまくられたものの、そのころからの住人はいまでは高齢になり、ほとんどが高齢者だけの世帯か空き家という感じだ。
凛 自身も大学に進学してからは家族三世代が住むこの住宅街を離れて、県外で一人暮らしをしている。
夏休み期間に入ったので、アルバイトをするか実家に帰って食費を浮かすか迷ったが、とりあえず帰ったら祖母にお使いを頼まれた。
となりの家へ回覧板を渡しに行くだけだが、空き家が続いているので実質的なとなりの家というのが数軒先なのだ。
「暑っち……」
遠慮なく照りつけてくれる真昼の太陽がうらめしい。
なんだっけ。さいきん地球の自転が速くなったんだっけ。
地球がケバブになった想像をして、さらに暑くなる。
ヤバい。
帰りは、少し遠回りだけどコンビニでアイス買って食べながら帰ろ。
ふう、とため息をついて周りの建物を見上げると、祖母から聞いた特徴に合致していると思われる家屋を見つけた。
白い門、碧色の屋根。
門の周囲に植えられたサザンカの木。
なるほど実家を出るまえから見ていた覚えのある家だ。
たしかお婆さんと小さなお孫さんがいたような気が。
門の周辺にインターホンをさがしたが、それらしきものは見当たらない。
昭和のそのままの感覚でインターホンをつけていない家も多い地域だ。
「ごめんくださーい」
凛は声を張った。
返事はない。
「ごめんくださーい。回覧板、置いときますねー」
もういちど声を張るが、やはり返事はなかった。
ポストに置いておけば大丈夫だよねと、白いシックなポストの受取口につっこむ。
ピシャッと顔に水滴がかかった。
「ひゃっ!」
びっくりして手で顔をガードするが、周囲に水がかかるようなものはない。
「なに。もう……」
なんか特異な自然現象なのだろう。帰ったらネットで調べてみよと思いながらきびすを返す。
こんどはピシャッ、ピシャッと顔や服にいくつも水滴がかかった。
「ちょーっと。もう……」
立ち止まり顔を手の甲で拭く。
かすかに人の声が聞こえた気がした。
「……え」
周囲を見回す。
たったいま回覧板を届けた家の玄関わきの小窓から、よろめくような、おかしな足どりの人の影が見える。
なんとなく尋常じゃない、ドタバタという足音。
ここはお婆さんと小さな女の子がいたような。
息子さんか娘さんはいないんだっけ、昼間は仕事なんだっけ。どっちだったかな。
ともかく高齢者と小さな子供しかいないのだ。緊急事態なんだろうか。
凛は門から敷地内に入り玄関ドアのまえに来ると、ドンドンとドアをたたいた。
「あのっ、なにかありましたか? 人手いります? あのっ、すみませーん!」
ダメ元でドアノブを回してみると、ドアが開いた。
中からバシャバシャという水音が聞こえる。
お風呂場だろうか。
「すみませーん。おじゃまします」
凛はサンダルを脱いで玄関の上がり框に上がった。
はげしい水音のするほうに小走りで駆けつけると、予想どおりお風呂場だ。
開いているアコーディオンドアの中を見ると、どういう状況かお婆さんと小さな女の子が二人そろって浴槽に顔をつっこんでいる。
「えっ、えっ? ちょっ……」
凛はまず女の子の体を抱きかかえると、思いきりうしろに引いて救出した。
つづけてお婆さん。腰のあたりを両手でつかんでグッとうしろに引く。
タイルの床に尻もちをつき、壁に背中をぶつけた。
かなり乱暴にしてしまったが、水死するよりはマシだろう。
「だっ、大丈夫ですかっ?!」
凛は呼びかけた。うっすらと目を開けたが、なにか意識がはっきりしないようだ。
脳卒中かなにかだろうか。
「まって。救急車……」
スマホを取りだそうとしたが、手元にない。
玄関のあたりに置いたんだっけと思いあわてて立ち上がった。
「まって。救急車呼んでくる」
そう女の子に告げて、凛は玄関に向かった。
玄関ドアを開ける。なぜか玄関内ではなく玄関のまえに置いてしまっていたバッグを手にとり中をさぐった。
「ここのご親戚のかた?」
となりの家の庭から声をかけられる。
中年のこざっぱりした感じの女性だ。
「あ、あのあの、すみません。救急車呼んでください。中でお婆さんがたぶん脳卒中かなんかで……」
「そこ、空き家ですけど」
中年の女性がふしぎそうに言う。
「えっ」
凛はふりむいた。
よく見ると、きれいに見えていたドアは塗料が剥げて下地の木目がむき出しになっている。
ポストも同様だ。錆びてほとんど茶色になっている。
庭木は伸び放題のところを通りの側だけ雑に伐採したらしく、形のわるい感じで雑草に囲まれていた。
開け放したつもりの玄関ドアは、閉められている。鍵穴の部分は錆びていた。
「え……」
「息子さん夫婦が昼間お仕事で、お婆ちゃんと小さい女の子しかいなくて。お婆ちゃん、たぶんお風呂の水を見ようとしたところで脳卒中をおこして、お風呂に顔つっこんで。女の子はそれを助けようとしたみたいなんだけど、小さい子の力じゃねえ……」
「うそ」
凛はバッグのひもをにぎりしめて塗料の剥げたドアを見つめた。
霊現象とかなのだろうか。まさか。
抱きかかえたときの感触まで手に残っているのに。
「……あのえと、すみません。じゃ、女の子もいっしょに?」
凛は、声をかけてきた中年女性のほうをもういちど見た。
中年女性のいたとなりの敷地には、だれもいない。建物もなく更地だった。
終