となりの水音
「すみませーん。大丈夫ですかあ?」
午前八時。
底水 涼平は、アパートとなりの部屋のドアをたたいた。
明けがたに停電があった。
前日の激しい雷雨の影響だと思うが、停電時からずっととなりの部屋からトポトポと水音がしている。
となりは高齢の男性が一人で住んでいた。
とくに話しをしたことはないが、何かと火災や盗難につながることを起こされそうで、たびたび気をつけて様子をみていた。
停電とは直接関係ないのかもしれないが、水道設備に破損でもあったのか。
下手すれば自分の部屋のほうまで水びたしにされかねない。
老人の心配よりも自分が損害を負わされそうだというほうが気になる。
出勤前になんとか解決しようとさきほどから呼びかけているのだが。
「あのっ、すみませーん!」
いまだドボドボという水音は聞こえている。さきほどよりも水の量が多くなった印象だ。
だが返事はない。
やば。
涼平は、ドアをたたくのをやめて眉根をよせた。
もしかして中で倒れてんのか。
ネットで見たいろいろな事件の概要が頭に浮かぶ。
明けがたの停電だ。
それ自体には気づかないで寝ていた可能性が高いだろう。
たとえば何らかの原因で水道の蛇口が破損したのに気づかず寝ていて、流れた水で水没し窒息死しているとか。
ふとんで寝てたら鼻と口の位置なんて、床からせいぜい二十センチ。
涼平は顔をしかめた。
横になってたら十センチほど。
まくらを使わない人ならもっと低い。
うつぶせで寝るクセのある人ならさらに低く、完全にふとんに顔をつっぷして寝る人なら……いやそれはその時点で窒息しそうだが。
ともかくヤバい状況かもしれない。
涼平は、おろおろと周囲を見回した。
出勤前にすんなり済むと思ってたのにと舌打ちする。
いちど自分の部屋にもどり、スマホを取ってくる。
となりの部屋のドアのまえにもどり、とりあえず管理会社に電話をかけた。
「──あ、あの。一〇二号室の底水です。となりのお爺……えと高齢のかたの部屋からすごい水音がするんですけど、呼んでも出てこなくて」
管理会社の事務員が、もたもたと対応する。「担当者に聞いてきます」と言って保留音に代わった。
その間にも水音ははげしくなる。もはやドドドドドという音にちかい。
管理会社員あの担当とやらはまだ出ない。
涼平はイライラしながら対応を待った。
ようやく保留の音楽が切れて担当者が出る。
「えとその水音がですね──え、もういちど説明ですか? ぜんぶ?」
状況を把握していない担当者に、のんびりと「どういった状況でしょう」などと聞かれる。
ポンコツ事務員が。電話の内容くらいちゃんと伝えろと内心で毒づいて、もういちど同じ内容を説明した。
「大家さん? ──会ったことないんですけど。電話番号? 知りません。名刺に書いてあったはず? 名刺自体もらったおぼえないんですけど誰の名刺ですか?」
何だこの連絡体制のダメダメな会社。
引っ越ししたろかとイライラしながらまた保留音を聞く。
すぐにまた担当者が出た。
「大家さんの番号? ──え、いまから言うんですか? 書くものないんですけど。スマホのメモ機能って、いまスマホ使ってかけてんで」
「あっそうか」と担当者が明るく笑う。
ポンコツしかいないのかこの会社。ほんと引っ越したろか。
「〇九〇……あのそれホームページがどっかにないですか? ──ない?」
こうなったら暗記するしかないか。
涼平は何とか番号を暗記した。
しかたがないので大家にかける。
どこに住んでるんだ。すぐに来られる距離なのか。
「──はい」
背後から通話に応じているような声が聞こえる。
涼平はふりむいた。
となりの部屋の老人がこちらに歩みよる。スマホを耳にあてて「どうしました」と尋ねた。
老人の声が、そのまま涼平のスマホの通話口から流れる。
「えと……大家さんにかけたんですけど」
「大家ですが」
老人がスマホを耳にあてたままペコペコと会釈する。
マジか、知らんかったと涼平は鼻白んだ。
「明けがた起きてユーチューブ見ようとしたら停電で、うちのWi-Fi使えなくなってましてなあ。知り合いがやってるネットカフェに電話したら停電じゃないってんで、そっち行ってWi-Fi使ってましたわ」
老人がにこにこと話す。
ユーチューブ、ネットカフェ、Wi-Fi。
見事にいまどきの老人すぎてびっくりする。
「いえあの……そちらの部屋からすごい水音が」
「ああ……」
老人が自身の部屋のほうをうかがった。
「二十年前のここらの洪水で、家内が死亡しまして。お盆近くになると、毎年部屋の中でも外でも水音がざぶざぶ聞こえるんですわ」
涼平は眉をよせた。
いったい自分は何の話を聞いているんだと困惑する。
「お盆すぎたらおさまりますんで」
老人がにこにこと笑いかけた。
終