両の手首がだらんと
自宅の手前でバスから降り、肩にかけた学生カバンのベルトをかけ直して数十メートルさきに玄関のあかりが見える自宅をめざす。
柳沼 美澪は、二週間ほどまえから原因不明の異状をしめす自身の両の手首を見た。
両手がなぜか幽霊のようにだらんと下がった形で固定されて動かない。
タブレットを操作するときはまだいいのだ。手首が曲がったままでも操作はできる。
とくに手を使わないときも、まあそんなに困らない。手を体のうしろに隠していたりする。
困るのは、体育のときか。
「前にならえ」をすると、だらんと幽霊のように両の手首が下がる。
周囲の友人に、「ちょっとなに? 幽霊?」と眉をひそめられた。
ごはんを食べるときも少し困る。
箸が持ちにくい。
母親に弁当の入った巾着を渡されたさいは、自分でフォークとスプーンも入れる。
箸よりも使いやすいので助かるが、持ち方かたはけっこう特殊だ。
友だちに怪訝な顔をされるのもイヤなので、弁当は一人で旧校舎で食べる。
なんだろう、これ。
なにかの呪いかなと怖くなる。
どこかでお祓いしたほうがいいのか。
お祓いできるところとか知らないし。ネットで調べればいいのか。正直ちょっと躊躇する。
自宅の玄関の明かりが視界のはしに見えてきた。
周囲はもう薄暗い。
暗くなった道ばたで両手首をだらんと下げて歩いていたら、まるでほんものの幽霊じゃないのと思う。
自分が幽霊になる呪いなんてあるのか。
というか、呪われそうなことなんてしたかなと考える。
心当たりはない。
いろいろ考えながら歩いていたら、いつの間にか周囲の風景が違うことに気づいた。
さきほどまで数十メートルさきに玄関のあかりが見えていた自宅がない。
「え……」
美澪は動揺した。
道のさきを見る。
鬱蒼と木々がおいしげり、数メートルさきはまっくらで進むのすら怖い。
「なにこれ」
うしろをふりかえるが、うしろはさらに深い森で道はとぎれている。
「うそやだ」
美澪はパニック状態になった。
血の気の引いた顔を左右にはげしく動かし、なんども周囲を見回す。むだな動きを延々とくりかえした。
バス停から自宅のあいだに、こんな山奥のような場所はない。
こんな場所は、もう少し遠くの。
まえに社会人のいとこに車で海に連れて行ってもらったさいに通った県境の山。
まるであのあたりの景色だ。
足もとを、長い長いイネ科の草のようなものがゆっくりと這っていく。
ヘビのように這う異常に髪の長い女性だと気づいて、美澪は悲鳴をあげた。
足もとが、ずぶずぶと地面にめりこむ。
こんどは大きな沼のまんなかにいることに気づいて、さらにパニックを起こした。
「や……ゴフッ」
あっという間に口元まで沼につかり、美澪はもがいた。
幽霊のようにだらんと下向きに固定された手が、暗い沼の水をかく。
美澪は、夢中で両腕を動かした。
一心不乱に岸をめざす。
プールの授業のときより、泳ぐ速度が速い気がした。
死にものぐるいだからなのか、それともだらんと手首が下向きになった手の形が、水をかくのに適しているのか。
必死で手足を動かし、美澪は岸にたどり着いた。
何メートル泳いだのか。プールにくらべたらすごい距離だと思う。自分でも信じられない。
ぬるぬるすべる水ぎわに懸命に足をかけて、美澪は泥だらけで陸地に上がった。
大正ロマンのような格好をした女性が、水ぎわにしゃがみ手をさしのべてくれる。
「ひっ」
美澪は裏がえった悲鳴を上げたが、さきほどの女性とはちがうようだ。
通りかかった親切なかただろうか。
いやこんな暗くなった山の中で、なんでコスプレしてるのこの人。
さきほどの異常に髪の長い女性は。
暗い沼地を、おびえながら見回す。
景色が変わった。
道ぞいにならんだ店舗や民家。
等間隔に設置されて足もとを照らしている外灯。
車のはしる音、人の話し声。
美澪は歩道のアスファルトにペタンとすわり、周囲を見回した。
「は……」
なにが起こったのか。
もとの景色だ。制服も濡れていない。
両手首に軽い違和感を覚えて、ぐるぐると回してみる。
だらんと下がって固定された状態は、両方とも治っていた。
呪いじゃなくて、水がかきやすいようにああなっていたとか。
美澪は首をかしげた。
終




