冷たい毒飲料をどうぞ ③
玄関の鍵が開けられる音がする。
玄関ドアの向こうから、しわがれた男性の声がした。
「いえね、この部屋から夜な夜な男女の言いあらそう声が聞こえるってほかの住民が」
初老の男性の声。大家だと美緒は気づいた。
「美緒は彼氏とかはいなかったはずです。それちょっとおかしいです」
若い女性の声が答える。
美緒はとまどった。
携帯ショップ店員の友だちだ。
連絡がつかないから様子を見に来たんだろう。
初巳が正座したまま玄関のほうに顔を向ける。
「美緒さん、彼氏いませんでしたっけ? 引っ越しのとき手伝ってくれてた男性は」
「あのあとすぐ別れたの。他人の私生活を知ったふうに言わないで」
美緒はイライラと返した。
なにをシレッと言ってるんだろう、この人と思う。あのドアの向こうの友だちを利用して殺人やらせたんでしょうが。
玄関のドアが開いた。大家が「うっ」とうめく。
「何だこの臭い!」
大家が、ドアを開けた瞬間に口と鼻を手でおおう。
友だちがドアのたて枠に手をかけて身を乗り出した。小さな三和土で急いで靴を脱ぐ。
「美緒?! 美緒!」
友だちが美緒の遺体に駆けよる。
しかし鼻とメンタルがダメージを受けたらしく、そこで「うっ」とえずいて口をおさえた。
「け、警察!」
「使いますかっ」
友だちは口をおさえながら自分のスマホを差し出した。
大家が友だちのスマホで通報し、おろおろとした口調で状況を伝える。
言ってる内容に、自分に落ち度はない、このことはあまり報道しないで、という言い分が垣間見えて美緒はイラついた。
立ち上がり大家につかつかと近づくと、腰に手をあてて声を張る。
「ちょっとあんたねえ、そんなこと言ってるところじゃないでしょ。あんたがちゃんと告知しないからこんなことになったんじゃない!」
「美緒さん、電話中ですよ。しずかに」
初巳が横から口をはさむ。
「なに他人事みたいに言ってんの、あんた!!」
美緒はどなりりつけた。
通報を終えた大家に友だちが問いかける。
「男女の言いあらそう声を聞いたって言ってましたよね?!」
「ええまあ。ここ数日、夜中になると聞こえるって。ほかの住民のみなさん、みんな気味悪がって」
大家が不器用な手つきでスマホをタップし、友だちに返す。
「夜中?」
美緒は初巳のほうをふりむいた。
「言いあらそいって昼間もしてたよね?」
幽霊になってから昼夜の区別はどうでもよくなっていたが、とくに時間は限定していなかったはずだ。
「このアパートは、昼間は仕事に出ていて夜しかいない人が大半ですから」
「ああ……そういうこと」
思いがけず怪談話のからくりのひとつを知ってしまった気がする。
友だちは美緒の遺体を見下ろした。
「殺されたんでしょうか……」
「さあどうだろうねえ。腐乱はじまってるから、死因の特定しづらいし」
大家が答える。
「でも、男女の言いあらそう声を住人の人たちが聞いているんでしょ? わたし、美緒の別れた彼氏が怪しいんじゃないかと思うんです」
「なんで?!」
美緒は声を上げた。
友だちが、確信ある表情で持論をつづける。
「美緒の別れた彼氏、すごく陰湿そうな目つきの人だったんです。わたし絶対ストーカー気質の人だと思ってました」
そ、そんなふうに見てたのかと困惑する。いい人だったんだけどな。
「別れたって言ってたからホッとしてたんですけど、きっとずっと付きまとわれてたんです!」
「つ、付きまとわれてない、付きまとわれてない」
美緒は友だちの横で手を左右にふり懸命に否定した。
内気な人だったから、別れてからは気を使って話しかけてすらこない。
「まあ、そういうのは警察にまかせて……」
大家が面倒そうに返す。
「分かりました。わたし警察で証言します!」
「やめてえええ!!!」
美緒は声を上げた。
「どちらかというと、真犯人はご自身なんですけどね……」
初巳が他人事のようにつぶやく。
「どちらかというとじゃないわ!」
美緒はどなりつけた。
「どうすんの! わたしの友だちだけじゃなく、元カレまで疑われるじゃない!」
「お友だちは大丈夫です。証拠隠滅のさいは充分の検品を実施し最善の努力をさせていただきました」
「万が一不備があったらどうすんの! 業務責任とるのかっ!!」
美緒は初巳につめよった。
「いいこと考えた。あんた、うちのムカつく上司にとり憑いて、犯人はボクですって言ってきなさい。ついでにここの部屋の特殊清掃の費用は宇美山商事が持ちますって」
「美緒さん、暗黒面に堕ちてます……」
初巳がは怯えた。
しばらくすると警察が到着し、美緒の遺体は搬出されて行った。
「ああ……せっかく商談に行けると思ったのに……」
初巳が泣きそうな顔で警察車両を見送る。
「泣きたいのはこっちなの分かってる? あんたのくだらない出世欲のせいで、いきなり死んだんだからね!」
「それに関してはたいへん申し訳ないと思っております。つきましてはわたくしからの提案なのですが」
初巳がたたみに手をついて深々とおじぎをする。
「今後は、ここにカップルの男女が住みつくよう仕向けさせていただこうかと思っております。美緒さんには代わりといっては何ですが、カップルの女性のほうの体を乗っとりお使いいただけたらと」
美緒は初巳のさげた頭部をじっと見た。
有りかも。
すでに自分の感覚も麻痺しているのかもしれない。だがやはり、まだやりたかったことはいろいろある。
「……容姿をちゃんと選んでくれるなら」
「それはもう。ご満足いただけるものをご用意できますよう、最善の努力をさせていただきます」
初巳がもういちど折り目正しく礼をする。
朱色の夕焼けが窓から射す。夜が訪れようとしていた。
終