冷たい毒飲料をどうぞ ①
朝から気温がぐんと上昇して、夕方になっても暑い。
せっかくの休みなのに湿気の不快さで目が覚めるのほんとにイヤだ。
エアコンの温度を下げるが、すぐに快適な部屋にはならない。イライラする。
体調くずしそう。
水元 美緒は、しめったベッドから起き上がると台所に向かった。
小さな冷蔵庫を開け、二リットルサイズのミネラルウォーターを取りだす。
今年の春から独りぐらしをしていた。
実家では大型のペットボトルに口をつけて飲むのは行儀が悪いと怒られたが、いまは誰にも気兼ねすることはない。
片手で持ち上げ、直接口をつけて豪快にごくごくと飲む。
タブーを犯した感と、冷えきった水の爽快さとで、はあ、と満足した息がでる。
シャワー浴びようか。
タンクトップの胸元をつまみパタパタとあおぐ。
風呂場のアコーディオンドアを押し開けようとした。
手が届かない。
「あれ?」
手で押しているつもりが、ドアが遠い。
思いきり腕をつっぱっいてるつもりだが、いつまでも手にドアの触れる感触がない。
「はれ?」
呂律が回らない。
なんかおかしい。
落ちついて体勢を立て直そうとしたが、どんなふうに立て直していいのかが分からない。
平衡感覚がおかしいが、おかしいという判断もおぼつかない感じ。
耳元でガンッと音がする。
倒れた気がするが、よく分からない。
わたし倒れたのか。
そんなはずないとなぜか思う。
すぐに立ち上がれるはず。
足を立たせて。
あれ。足ってどこ。
アパートの室内の景色が、一気にせばまる。
いままでいた場所から、ものすごい速さで引き離されるような、おかしな感覚。
気がつくと、美緒は倒れた自分の横に座っていた。
「え?」
正座した膝のまえに、目を見開いて倒れるタンクトップと短パンの女性。
クセのあるボブの髪、耳につけた小さなピアス。
自分自身にしか見えないんだけど。
なにこれ。
幽体離脱。その言葉が浮かんだ。
それならすぐ戻らなきゃ。
美緒は立ち上がり、つまさきでそーっと自身の体をつついてみた。
こ、こんな感じで入ればいいんだろうか。
「あのそれ、譲っていただけませんか」
うしろから男性の声がした。
「は?」
美緒はふりむいた。
六畳のたたみの部屋。中央に置いたテーブルの横に、正座した男性がいる。
美緒よりも少し年上の会社員ふうだ。
「きゃああああああ!!!」
美緒は悲鳴を上げて玄関口まで後ずさった。
玄関のドアに背中をぶつけ、そのまま外にすりぬけてあわてて中にもどる。
「な、いや、泥棒、いえ変質者!!」
「どちらでもないです。あなたのまえの住人です」
会社員ふうの男性が落ちつき払って答える。
「ま、まえの。なにかお忘れものでもっ!」
美緒はわたわたと声を上げた。
「いえ。ずっとここにいたんですが、やはり気づいてませんでしたか」
男性が淡々と告げる。
「やっぱり変質者?!」
「違います。死んでいますから、そんな性欲はもうありません」
「死んでいなければ、あるんですねっ!」
自分でもなにを言っているのか分からないが、通報しなきゃと思いつく。
美緒は、スマホを置いた場所を目でさがした。
男性のすぐ横のテーブルの上だ。どうやって取りにいこう。
「落ちついてください。いま事情を説明します」
男性はいちどスーツの内ポケットをさぐり、ややしてから何かに思いあたったように眉を上げた。なにも持たず内ポケットから手をだす。
「すみません、名刺は切らしておりまして。わたくし宇美山商事の初巳と申します」
初巳はたたみに手をつき、折りめ正しく礼をした。
「はあ。ごていねいに」
美緒はついつられて正座した。
「話せば長くなるのですが」
「できれば、かいつまんで」
「ではかいつまんで。わたくし一年前にここに住んでおりまして。ある日、脳梗塞と思われる症状で急死いたしました」
「はあ」
美緒は相づちを打った。
「お若いのに」
なんなくお婆ちゃんの口グセをまねてしまった。
「わたくし、当日に大事な商談をひかえておりまして。ゆくゆくは独立も考えておりましたので、人脈を作る大きなチャンスとも考えておりました」
「はあ」
「ところが急死してしまった。わたくしは何とか代わりの体でもいいから商談に駆けつけられないかと思いまして」
「え?」
「代わりの体を手に入れる機会をうかがっておりました」
「は?」
初巳がたたみに頭をすりつける。
「おねがいです! あなたの体をわたくしに譲ってください!」
「なに言ってんですか。意味分かんないです!」
美緒はきっぱりとそう返した。