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5話 公演『裏切りの刃』

 


 数日後の『裏切りの刃』初演当日、劇場は観客で埋め尽くされていた。


 レティシアはソフィーと並んで客席に座り、エメラルドグリーンの瞳を輝かせて舞台を見つめる。




「ねぇソフィー、とうとうアルが重要な役を持たせてもらえたのよ。どうしよう、私まで緊張してきちゃった」

「もう……。しっかりしてよレティ」




 ソフィーは呆れつつも暖かく笑う。



「あなたはずっと見守ってたんでしょう? 信じてあげて」




 ─── ───





 公演が進み、王子役のジュリアン・デュヴァルが策略を企てる場面が訪れる。舞台中央でジュリアンが剣を手にする。




「我が忠臣よ、この戦を終わらせよう。敵将を討ち、我が名を刻め」



 爽やかな声で彼が命じる。


 アルベールが腹心として登場し、がっしりした肩幅を強調する灰色の革鎧に身を包む。





「殿下、この剣は貴殿のためにございます。


 ――貴殿の命を守り抜く覚悟、我が胸にあり!」







 声に力と深みが乗り、ジュリアンが「その覚悟、見事だな」と誠実な笑顔で応じると、二人の掛け合いが観客を引き込む。


 レティシアは「アル、すごい……!」と呟き、ソフィーが「確かにうまくなったわね」と頷く。観客席からも「三下役だった奴がやるじゃねえか」と感嘆の声が漏れるのが聞こえて、レティシアは思わず笑顔になってしまう。




 そうよ、私のアルは本当に最高なんだから!






 ─── ───







 そしていよいよ物語は佳境に入る。


 腹心の部下が忠誠を誓った王子のため、戦場で「進め、我が軍!」と号令をかけるが、策略が露呈し、王子は部下を見捨てて逃亡。残された部下たちが混乱の中で奮闘する――。



 後半の展開のすべての始まりとなる、「進め――、我が軍!」とアルベールが号令をかけるシーンが訪れる。


 動きも派手、観客の視線全てが彼に集まる、最大の見せ場だ。




 アルベールは剣を手に舞台中央へ進み出る。観客の視線が一斉に注がれ、照明が彼を照らす。


 胸が締め付けられるような緊張が襲い、心臓が早鐘のように鳴る。






(やっと……。やっとここまで来た。

 ……俺がここに立てるのは)




 彼の目が劇場を見渡し、見慣れた淡い金髪でとまる。スポットライトが眩しくても、観客席がどんなに薄暗くても、彼はその姿だけは間違えない。





 (レティの応援が、あったからだ)





 しかしすぐに、見つめてくる無数の目が彼を襲う。



(失敗したら、また笑いものだ。俺には無理なんじゃ……)




 そんな考えが、頭をよぎる。


 汗が額を伝い、喉が締まり、剣を持つ手が微かに震え始める。息を吸い、「進め――」と声を張るが、言葉が途中で詰まる。

 喉に引っかかり、どうしてもその先が紡げない。





 どうして、どうして!

 どうして俺は、いつもこうなんだ!!





 剣が手から滑り落ちる。鈍い音が響き、劇場がシーンと静まる。








「……た、隊長ー! 剣取り落としちゃったら、俺らはどっちに進めばええんや!!」




 ニコラの声がすかさず響いた。観客がコミカルな動きにどっと湧く。

 彼がアドリブでカバーしてくれたのだ。




「う、うるさーい! とにかく敵へと進むんだー!」




 ニコラのおかげで、どうにか劇の流れを立て直す。ミスなどなかったように、スルスルと。

 しかし、アルベールの耳には、観客の「またやらかした」「三下は三下だな」という笑い声が届いていた。




 ─── ───







 公演が終わり、楽屋へ戻ったアルベールは、力がぬけたように膝をついた。



「せっかくのチャンスだったのに、やっぱり俺はダメだ……」



 そのとき、目の前に誰かが来た気配がした。





「……アル」

「アル、レティシアの嬢さん来てくれたから、連れてきたで」






 ─── ───






 勢いで来たはいいものの、レティシアは第一声に迷ってしまった。

 こんなとき、何と声をかけたらいいのかわからない。アルベールの前で紡ぐべき言葉がわからなくなるのは、初対面の時と今回で二回目だった。




「……アル、お疲れ様」



 できるだけ穏やかに声をかけるが、アルベールは顔を上げない。



「……何だよ、お前まで笑いに来たのか」





 弱々しい声に、息が詰まった。そうだ、と思い出し、彼女は小さな包みを取り出す。




「これ、『蜜リンゴタルト』よ。つくってみたの。アル、甘いもの好きかなって思って!」






 シナモンの甘い香りが漂い、彼女の瞳が優しく輝く。

 アルベールは目を細め、包みをじっと見つめる。汗で濡れた茶髪が額に張り付き、ふくよかな体型が楽屋の薄暗さに溶け込む。内心、「甘いもの……確かに好きだ」と一瞬思うが、すぐに自己否定が頭をよぎる。




(こんな時まで気遣われて、どうすりゃいいんだよ)

 不甲斐ない自分に、苛立ちが湧いた。





「……これでも俳優だからな。手作りは遠慮する」






 レティシアはその聞いたことがないほど硬い声に、固まってしまった。彼の声は低く、少し震えていた。包みから目をそらし、煙草を懐から取り出して弄ぶ。




「お前、こんな俺に何期待してんだ?

 笑いものに甘いもの食う資格なんかないだろ」




 彼はそう言って、包みを手に取らずに彼女から視線を外す。

 レティシアは一瞬黙り、包みをそっと下げる。



「それでも構わないわ、私がただまた暴走しちゃったの。ごめんなさい」




 そう言って笑ってみせたが、こんな言葉は余計にアルベールを追い詰めるだけとも気づいていた。レティシアはそっと息をつく。







「……ねえ、アル、少し散歩でもしない?」







 落ち着いた声で言えば、アルベールは「……何だ急に」と顔を上げてくれた。

 前髪は汗でしっとりと額に張り付き、目が迷子の仔馬のように不安げに揺れている。


 それでも、レティシアは彼から目をそらさない。やがて根負けしたアルベールが、「……ったく、好きにしろ」と立ち上がった。







 ─── ───








 二人は劇場裏から近くの川沿いの土手へ歩き出した。夜風が涼しく、レティシアの金髪が軽く揺れ、川面に月が映る。

 土手を歩きながら、彼女は静かに言う。





「アル、ミスをしたって、あなたの価値は変わらないわ。

 ……ローラン様だって、槍を取り落とすことがあったじゃない。それでも立ち上がって、仲間を守ったのよ」




 彼女の声は穏やかだが、確信に満ちている。

 アルベールは煙草を手に弄び、「俺はローラン様じゃねえよ」と呟く。


 我慢ならなかったように、彼はレティシアを振り向いた。






「俺はレティの理想のローラン様なんかじゃない!

 何度だって言うが、俺はただの笑いものだ。あんたがいつもローランだなんだって持ち上げるたび、俺は……。俺自身じゃダメなのかって思うんだよ!」






 その言葉には、理想に重ねられる苛々と、自分をそのまま見て欲しい切実さが滲んでいた。


 痛々しいほどに剥き出しに突きつけられた彼の本音に、レティシアは一瞬、息を詰める。

 ――自分の想いが、彼を傷つけたのか。




 それでも彼女は立ち止まり、目を潤ませつつも微笑む。


 傷つけたなら、ちゃんと抱きとめなければいけない。いや、彼女自身が、やっと聞けた彼の本音を、きちんと抱きとめたいと思ったのだ。





「確かにアルはローラン様じゃないわ。でも、私にはアルの頑張りがそれ以上に愛おしいの」






 レティシアはアルベールの握りしめられた拳をそっと手にとった。彼自身にも、彼を傷つけるようなことをしてほしくなかった。

 華奢で色白の手が、大きく無骨な手を包み、そして1本1本こわばりを解くように指を絡ませる。


 その体と同じように、ふかふかとした手だ。

 柔らかく、暖かい手だ。



 アルベールは困惑して、少し顔を赤くしながら、黙ってされるがままにしていた。






「最初にあなたに惹かれたのは、ローラン様に似ているからだったわ。でも今は違う。

 だって舞台をおりたあなたって、ちっともローラン様に似てないんだもの」





 レティシアが、くすくすと鈴が鳴るように笑う。





「意地っ張りで、不器用で、でも私を寄宿舎まで送ってくれるくらい優しいところもあって。いつも押しかける私のことを全然邪険にしないでくれる」




 それにね、と言いながら、レティシアは一歩、アルベールとの距離をつめた。


 至近距離で見上げれば、彼の顔がぼっと噴火するように赤くなる。





「ふふ、こんなに可愛らしくて愛らしい!」

「……なんだ、結局あんたも俺をからかいたいだけかよ。お貴族様は性格が悪いこって」





 アルベールは憎まれ口をたたくが、それさえもレティシアにとっては愛おしいので逆効果である。エメラルドグリーンの瞳を蕩けさせて、レティシアは彼を見つめた。




「その毒舌だって、裏切り者を斬る刃みたいに鋭いじゃない。ねぇ、すごいこと思いついちゃった! それを活かして脚本を書いてみるなんて、どう?  アルなら、もっとすごい舞台を作れるわ。

 私、信じてるんだから!」




 彼女の瞳が輝き、アルベールはしばらく黙り込む。




「……お前、ほんと変な奴だな」





 ダークブラウンの目をすっと細めるが、これもただの照れ隠しであることも、レティシアは知っていた。

 アルベールの声はぶっきらぼうながらどこか柔らかく、レティシアの言葉が胸に響いたことを隠せなかった。

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