4話 あなただから
レティシア・ジラールの応援は、アルベール・サロートの日常に波紋を広げていた。
公演後の出待ちで「アルベール様、最高だったわ!」と響く声が劇場裏に届くたび、仲間が「またお前の嬢ちゃんが来てたな」とからかう。
アルベールは煙草をくわえ、「うるせえ」と返すが、彼女の手紙が届く度に目を細めて読みこんでしまう。そんな自分にも、困惑を隠せなかった。
ある日、楽屋で封筒を開くと、「あなたの存在感が舞台を圧倒してたわ。まるで戦場を生き抜く英雄よ」と綴られていた。
アルベールは「何だこの熱量は……」と呟きつつ、懐に仕舞う。その言葉が頭にこびりつき、稽古での発声にも力が入るようになっていた。
─── ───
そんな中、劇団で新作『裏切りの刃』の配役オーディションが開かれた。
劇団一番人気俳優、ジュリアン・デュヴァルが考案した脚本で、王子が隣国との和平を装い、敵将を暗殺する策略を企てる戦記物である。
今回はその王子の策略に翻弄される腹心の部下役を決めるため、俳優たちが集められた。
ニコラが「今回は気合い入れて選ぶで」と笑い、ジュリアンが爽やかな声で「俺が書いた脚本だし、王子役は譲れないかな。腹心役も大事だから、しっかり頼むよ」と言う。明るい栗色の髪を揺らし、緑の瞳が誠実な輝きを放つ彼に、仲間が「ジュリアンなら脚本も演技も完璧だろ」と頷く。
オーディションも後半、アルベールの番になり、舞台に立つ。
一人で立つ舞台は、やけに広い。重圧に押しつぶされないように、アルベールはぐっと足を踏ん張った。
「隣国を裏切る? 殿下、本気で仰っているのですか?」
しんと静まり返った劇場に、自分の声だけが響く孤独。しかしそのとき、あの日出待ちをしていたレティシアの声が頭をよぎった。
『その気迫、アルベール様!』
「……いえ、殿下の命ならば……。だが、敵は我らを捨ておかないでしょう。我が軍はどうなる!?」
ニコラが「お、アル、声に魂入ったな」とひそかに笑うのが聞こえた。別の俳優が「三下役しかやってねえ奴が何だよ」と皮肉る。彼も確か、このオーディションに参加していたはずだ。
アルベールは内心「うるせえ」と返し、息を吸う。
『まるで戦場を生き抜く英雄よ!』
「剣を掲げ……、進めと? 殿下、部下の命は軽いのか!?」
劇場に、パンパンと拍手の音が響いた。
ジュリアンが「そこまででいいよ。いいね、アル。熱が伝わってきた」と爽やかに笑い、ニコラが「腹心役はアルに決まりやな。声が届いてたで」と手を叩く。
仲間の一人が「レティシア嬢ちゃんのおかげじゃねえか」と囃し、別の者が「毎晩手紙読んで気合い入れてたもんな」と笑う。
アルベールは「うるせえよ」と一蹴するが、彼女の応援が演技に火をつけたことは、誰よりも彼自身が知っていた。
─── ───
数日後、夜遅く、アルベールは劇場に残って1人練習していた。舞台の隅で剣を手に、「進め、我が軍」と呟き、動きを確かめる。
部下が結局王子に従い、隣国を裏切るために軍を動かす。動きも派手なこのシーンは、アルベールの演じる役の最大の見せ場だ。汗で濡れた茶髪が額に張り付き、ふくよかな体型が薄暗い照明に映える。
「――アルベール様!」
聞こえるはずのない彼女の声に驚き、剣を握る手が一瞬止まる。
「お、お前……まだいたのか?」
アルベールは目を細め、呆れたように言う。
劇場の入口からひょこ、と顔を出していたレティシアは、アイボリーの靴を鳴らしアルベールのもとへ近づいてきた。
「あなたの頑張りを見届けたくて! もう少し見ていてもいいかしら?」
「こんな時間に貴族のお嬢様がうろつくのは危ねえだろ。帰れよ」
彼のぶっきらぼうな言葉に、彼女は首を振る。
「でも、アルベール様が1人で練習してるなんて知ったら、見逃すわけには――」
「……ったく、なんで俺なんだか……」
アルベールは煙草の箱を取り出して、目を細めて彼女を見る。
「他の令嬢たちみたいに、ジュリアンとかニコラさんを応援した方が楽しいんじゃないか。二人は王都でもなかなか見ないくらい顔もいいし。
俺なんか三下役どまりの、ただのデブだ」
自嘲気味なその声に、レティシアは一瞬目を丸くした。俯いたアルベールの瞳は悲しげで、胸が締め付けられて拳を握る。
――こんな風に自分を笑うようになるまでに、この人は何度嘲笑われてきたのだろう。
私と、同じだ。
「――あなたがいいの!
アルベール様、あなただから好きなの!」
彼女の声が弾み、エメラルドグリーンの瞳にわずかに涙が滲む。
「ジュリアン様もニコラ様も確かに素敵よ。だけど、……あなたの健気な頑張りが、私には何より特別なの」
アルベールはしばらくその糸目を驚きに見開いていたが、煙草を懐に仕舞い、「……そうかよ」と呟いた。
「……暗い中令嬢を1人で帰すなんてまずいだろ。送ってく」
彼女は「え、でも……!」と口ごもるが、アルベールに「さっさと行くぞ」と言われ、言葉を呑み込んだ。
─── ───
夜の王都を歩きながら、レティシアはドレスの裾を軽く握り、「ねえ、アルベール様」と切り出す。
「道すがら、台本読みに付き合ってもいいかしら? あなたの演技、もっと輝かせたいの」
アルは足を止め、目を細める。
「何だ? お前、俺の演技に口出しする気か?」
「そうじゃないわ! ただ、あなたの頑張りがもっと届くようにって……」
彼女の瞳が輝き、アルベールは「……冗談だ」と呟き、懐から台本を取り出す。
「声に出すだけだぞ。……始めるか」
アルベールは台本を開き、レティシアが隣で耳を傾ける。彼が選んだのは、王子への忠誠を口にするシーンだ。
「殿下、我が命は貴殿に捧げます。剣を手に戦う限り、貴殿の名誉を守り抜きます」
低い声で読み上げる。だが、どこか硬く、レティシアが
「もっと気持ちを込めて! 部下としての覚悟を!」
と声をかけると、アルベールは目を細める。「うるせえな……」と呟きつつ、もう一度試す。
「殿下。我が命は貴殿に捧げます。剣を手に戦う限り――」
彼はパタンと台本を閉じ、自分を見つめるレティシアの目を見た。
鋭い、全てを見透かすようなダークブラウンの瞳が、彼女の目を射抜いた。
「――貴殿の名誉を、守り抜きます」
レティシアは息を詰めてアルベールを見つめていたが、はっと気づいて手を叩いた。
「その調子よ、アルベール様! ……まるでローラン様みたいだわ」
アルベールは「またそれか」と苦笑するが、どこか照れた様子で煙草を手に弄ぶ。
王都学園の寄宿舎の門前が見えてきた頃、アルベールは立ち止まり、「着いたぞ」と言う。レティシアはドレスの裾を整え、軽くカーテシーをする。
「ありがとう、アルベール様。送ってくれて助かったわ」
アルベールは煙草を取り出し、
「……アルでいい。アルベール様とか……堅苦しいだろ」
と呟いた。彼女は目を輝かせ、
「……じゃあ、私も、私も! レティって呼んで欲しいわ、アル!」
アルベールは「気が向いたらな」とそっぽを向くが、口元が緩む。
レティシアはそれから少し黙って、頬を赤らめふと呟いた。
「ねえ、アル。私、家族の中じゃ少し浮いてるの。父や母は領地経営や社交に忙しくて、兄や姉は貴族として完璧で……。
私なんか、戦記物に夢中な変わり者だって笑われるだけ。寄宿舎に来てからも、みんなと違うって、孤独だったのかもしれない」
彼女の声が小さくなり、目を伏せる。
「でも、あなたの頑張りを見てると、私も頑張れる気がするの。不器用で、でも諦めないあなたが、私には特別で……。
だから、惹かれたのかもしれないわ!」
アルベールは煙草を手に持ったまま、彼女をじっと見つめる。「……お前、変な奴だな」と呟き、目を細める。
「まぁ、好きにしろよ。俺は帰って寝る」
アルベールをずっと観察しているレティシアは、そう踵を返したアルベールの耳が赤くなっているのを見逃さなかった。
彼女がそれを思い出しながら、ベッドの上で彼のあまりの可愛さに悶絶したのは、また別の話。