3話 お貴族様の気まぐれ
次の公演が終わり、アルベールが煙草を手に外へ出ると、出待ち待機場所に少女が立っているのを目にした。
腰まであるゆるくウェーブのかかった淡い金髪が夕陽に照らされ輝き、胸元には絵姿集を大事に抱えている。アイボリーの靴に包まれた踵が、そわそわと浮いたり地面に着いたりを繰り返している。
エメラルドグリーンの瞳がアルベールの姿を見つけると――劇場に来る貴族たちがよく付けている――宝石のようにきらきらと瞬いた。
「……あんた、本当に来たのか」
驚きに目を丸くしたアルベールの手から、まだ火をつけていない煙草がぽろっと落ちる。
彼女は駆けよろうとするのをぐっとこらえるように目をつぶり、ついでぱっと破顔した。
「もちろんよ、アルベール様! 」
レティシアは観劇中の感動を思い出し、ぎゅっと拳を握りしめた。
「今日も素晴らしかったわ。特に、最後に騎士団長に盾を渡すシーン、アドリブだったでしょう? あれがまた健気で最高だった!」
アルベールは煙草を拾い、「うるせえな」と呟くが、口元がわずかに緩むのも自覚していた。
そんな自分に、思わずそっぽを向く。
「あー……。次も、来るつもりか?」
「当然です! あなたの頑張りを見逃すわけにはいかないもの」
レティシアがきらきらとした笑顔を向けてくる。
彼は目を細め、「好きにしろ」と背を向けるが、その足取りはどこか軽やかだった。
─── ───
一方、劇団内では、レティシアの手紙が話題になっていた。楽屋で仲間がにやにやと笑いながらアルベールに近づいてくる。その手にはアイボリーホワイトの封筒が握られていた。
「おい、アル、また例の嬢ちゃんからファンレターきてるぜ」
アルは煙草をくわえたまま受け取り、目を細める。そこには、彼女の熱い思いが綴られていた。
「拝啓、アルベール様。今日はあなたの声がいつもより通っていたわ! きっとたくさん発声練習をしたのね。努力してる姿が目に浮かぶようで、それだけで胸が熱くなりました」
「あなたって並の人にはない存在感があるわ。オーラがあふれてるってこういうことを言うのかしら。
それとも好きだからこんな風に思っちゃうのかしらね。舞台に立つだけで目を引くんだもの」
「今日も本当にビジュが優勝。少し赤みがかった茶髪が汗で濡れて、まるで戦場を駆けた馬のたてがみみたいに力強く揺れてて、がっしりした肩幅が頼もしくて、丸い顔が愛らしくて、糸目が涼やかで――全部が素敵すぎるわ! あなたの外見って、まるで戦場を生き抜いた英雄そのもの。見てるだけで私の心が戦ってるみたいにドキドキするの。最高の推しです!」
手紙を読み終えたアルベールは、「何だこの長文は……」と呟きつつ、煙草の煙を吐き出す。仲間が「可愛いファンがいてよかったな」と笑うので、「うるせえ」と思わず怒鳴ってしまう。
アルベールは再度封筒を見やる。「レティシア・ジラール」と、伸びやかで華やかな筆記体で署名がされていた。手紙の最後の方は書き急ぐように少し乱れていたのに、と思って、ふっと笑みがこぼれてしまう。
「どうせ、貴族様の気まぐれだろうよ」
そう言いながらも、彼は手紙をそっと懐にしまった。
─── ───
数日後の公演後、アルベールは再び劇場裏で煙草を手にしていた。仲間たちが楽屋から出てきて、いつものように雑談が始まる。
レティシアの出待ちは今夜も続き、彼女が待機場所で絵姿を抱えて待っている姿が、遠くにちらりと見える。だが、アルベールの耳に届いたのは、別の話題だった。
「おい、聞いたか? ルイ様、エレオノール様に対してとうとう婚約破棄したんだってよ」
仲間の一人が笑いながら言うのに、もう一人が続ける。
「イメージ払拭のためか知らんが、マリー様と貧民救済のために炊き出しとかやるんだってさ」
アルベールは煙草をくわえたまま、煙を吐き出した。目を細め、低い声で毒舌を漏らす。
「婚約者だの貧民救済の実績だの、見栄えのいい飾り物が欲しいだけだろ。あんな軟弱貴族にゃ、戦場で槍一本持てねえよ。偽善臭が鼻につくね」
その言葉は、「お前だって戦場出たことはないだろ〜」などと仲間たちの笑い声を誘うが、鋭さが空気を切り裂く。
その声を聞きつけたレティシアが、待機場所から少し近づいてくる。アイボリーの靴が地面を軽く叩き、彼女の瞳が再び輝き出す。
「ごめんなさい、どうしても我慢できなくって! その気迫、アルベール様!
まるでローラン様が裏切り者を斬る瞬間みたいです! 最高に格好いいわ!」
彼女の声が弾み、拳を握って目を輝かせる。
アルベールは煙草を指でつまみ、目を細めて彼女を一瞥した。
「うるせえな、貴族のお嬢様。毎度毎度、そんな熱く語られても俺はローラン様じゃねえよ」
彼はそっぽを向くが、煙草の先を軽く震わせる手が、彼の動揺を隠しきれなかった。仲間の一人が「ほら、アル、またファンが盛り上がってるぜ」とからかい、笑い声が響く。
レティシアの色白の頬にさっと朱が差す。
「でも、あなたのその言葉、私の心を動かすんだもの」
彼女の少し困ったような笑顔が夕陽に映えるから、アルベールはまた、「……そうかよ」などと呟いて踵を返してしまう。
だが、その足取りは軽く、心のどこかで、彼女の声が響き続けていた。