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1話 私の英雄

 


「……あの人こそきっと、私の英雄だわ!」


 レティシア・ジラールの叫びが、王都一の劇場に響き渡る――はずもなく、心の中でだけ炸裂した。



 高揚を閉じ込めるように胸の前で手を握りしめ、彼女は舞台の俳優を見つめる。


 ふくよかな体型に糸目、平凡な茶髪――笑いもの扱いの彼が、燭台を倒して転げ回る姿に観客は腹を抱える。


 しかし、彼が不器用に仲間を庇おうと立ち上がったその瞬間、彼女の戦記オタクの血が騒ぎ出したのだ。



「ねえ、レティ?  大丈夫?」



 隣のソフィーが心配そうに囁くが、彼女の耳には届かない。先程この親友と一緒に見た劇団員たちの絵姿の中に、彼の姿と名前もあったはずだ。




「アルベール、様……。私の、英雄」




 ふわふわの金髪が揺れ、エメラルドグリーンの瞳が輝く――レティシアの新たな戦場が、ここで幕を開けた。







 ─── ───





「一緒に王都劇場に?」




 数日前。王都学園の食堂で、レティシアはこてん、と首を傾げた。射し込む陽光で、ふわりとしたロングヘアが淡い金色に輝く。

 その前には、親友のソフィー・ルノワールがいつになく真剣な表情で座っている。


「そう、どうしても見たい演劇があるんです! ねぇレティ、頼まれてくれないかしら」

「あなたの頼みなら……とは思うのだけれど。いつものようにお母様と一緒に行かないの?」



 あまり興味なさげに野菜スープをスプーンでくるくるとかき混ぜるレティシアに対し、ソフィーは軽いため息をついた。眼鏡の奥の灰色の瞳は物憂げである。



「そのつもりだったんだけれど、お母様ったら少し風邪をひいちゃったみたいで。季節の変わり目だもの」


 でもね、と彼女はその黒髪ボブを揺らしながら身を乗り出す。


「今回の公演は本当に特別なの。あのニコラ・ルルーがとうとう主演を演じるらしくて!」

「ニコラって確か……。あなたがよく人懐っこい笑顔が素敵って話してる……?」



 記憶に自信はなかったが、ソフィーが微笑んで頷いたので、レティシアはそっと胸をなでおろした。

 他人の推しを間違えるというのは、ジャンル違いのオタクであってもできる限り犯すべきでない過ちである。


「演目は『騎士団の大騒動』っていう喜劇なんです。

 劇団がいつもやってるみたいな恋愛譚じゃないから、レティも楽しめるんじゃないかなって……。

 どうかしら?」


 ソフィーは少し遠慮がちにその灰色の目を伏せた。

 まさに懸念していた点についても親友がカバーしてきたので、レティシアはその気遣いに思わずふふっと笑い、からかいたくなってしまう。



「そうねぇ、これで不屈! とか信念! とかやってくれたら完璧なんだけれど」

「レティ……。あなたって本当に戦記物が大好きね。あなたを見ていると、私なんて全然ニコラ様のライトなファンでいいって思います」



 親友の苦笑いを受け止めて、レティシアは彼女の観劇に付き添う約束をした。





 ─── ───





 レティシア・ジラールは、王都でも名の知れた伯爵家ジラール家の末娘である。普段は王都学園の寄宿舎で暮らし、休暇時は屋敷で気ままに過ごす。

 父シャルルは領地経営に忙しく、母マルグリットはバラ園の手入れに夢中。長兄ギヨームは跡取りとして厳格に振る舞い、長姉カトリーヌは社交界で優雅に立ち回る。


 そんな家族の中で、レティシアだけが異端だった。

 彼女は、貴族令嬢らしからぬ無骨な戦記物――特に王都三大戦記のひとつ、『吼え猛る鉄騎』の大ファンだったのだ。




『吼え猛る鉄騎』は王都で100年以上前に編纂された戦記物。

 舞台は王国の辺境で、貴族の裏切りにより孤立した騎兵団が敵国に立ち向かう歴史的事件がもとになっている。


 主人公は、王国の辺境を守る騎兵団長ローラン・デュラン。平民出身ながらその武勇で名を馳せていた。しかし、王都の貴族が裏で敵国と手を組み、ローランの騎兵団は罠にはめられ、見捨てられる。

 圧倒的な敵軍に囲まれた戦場で、部下が次々と倒れる中、ローランは折れかけた槍を手に立ち上がる。


「俺が生きてる限り、お前らを死なせはしない!」


 彼は純粋な闘志で敵を押し返し、仲間を逃がすため単身で殿を務める。

 最後は血まみれで槍を地面に突き立て、部下に「生きて帰れ」と言い残し、力尽きる――。




「これこそ、人間のあるべき姿よ!」


 書斎でこの本を胸に抱いて思わずそう叫ぶ瞬間、それこそがレティシアの生き甲斐だった。



「また変な本を読んでるの?」とカトリーヌにからかわれ、「いい加減縁談を考えなさい」とギヨームに呆れられても、レティシアは意に介さない。


 王都の貴族子弟が口にする軟弱な求愛の言葉は、戦場で命を賭ける英雄たちの一言一言とは比べ物にならないほど薄っぺらく、彼女の心を動かすことはなかった。

 書斎で分厚い戦記を読みふける彼女にとって、現実の恋愛など些細なものだった。






 ─── ───






「初めて来たけれど……。随分と賑やかなのね」


 王都劇場に足を踏み入れたレティシアは、思わずその大きな淡い緑の目をさらに大きく見開いた。

 公演がはじまるまでにはまだ時間があるにも関わらず、席のほとんどが既に埋まっていて、皆がそわそわとしながら談笑している。


「そうね、いつも活気がある場所ではあるけれど……。なんていったって王都一番の劇場ですもの」


 隣に並んだソフィーが、待ちきれないといった顔でレティシアに笑みを向ける。



「でもやっぱり、今日は特別賑やかだわ。演目が『騎士団の大騒動』だからかしら。とても伝統のある演目なの」



 そう言いつつ再度周りを見渡した彼女は、しかし一点に目を止めて、ほんの少しだけ顔を顰めた。



「どうしたの?」

「レティ、しーっ、ですよ?」



 前置きし、彼女はそっとレティシアに耳打ちする。




「一番上段の席。王太子のルイ様がいらっしゃってますわ」



 見上げると、確かにこの国の王太子ルイ・ド・ヴァロアがゆったりと腰掛けている。

 明るい華やかなブロンドが照明を受けてキラキラと光を放っていた。その横には寄り添うように、栗色の滑らかなストレートロングヘアを持つ少女が座り、ルイににこにこと話しかけているので、レティシアは思わず首を傾げた。



「あれ? ルイ様の婚約者様って、エレオノール様だったはずでは?」

「レティ、だからしーって言ったんです」



 ソフィーの知的な灰色の瞳が、レティシアをじとっと見つめる。

 幸いそこまで大きな声だったわけでもないので、二人は目立たないようにそっと席に座った。


「レティは社交界に本当に興味が無いから……。

 あれはマリー・ラフォレ男爵令嬢、ルイ様の新しい婚約者候補かもと囁かれてる令嬢です。学園でたまにおふたりでいるところを見かけませんか?」

「確かにそんな気がしないでもないけど……。

 新しい婚約者って、ルイ様にはエレオノール公爵令嬢がいたのに?」

「レティ、恋愛譚に興味のないあなたにはわからないかもしれません――正直に言って私も理解なんてしたくないです――が。

 殿方の愛情なんて、しばしば他所にうつるものですよ」


 ソフィーはしらけた顔でそう言ったあと、ぱっと笑い

「そんなことよりレティ、さきほど今回の公演にでる劇団員たちの絵姿を買ったの。一緒に見ません?」

 とそれを広げてみせた。



「へぇ、劇場って、こんなものも売っているのね」

「ええ、見てくださいレティ。いつもは最初のページとその次のページは、一番人気の俳優ジュリアン様と、女優のイザベル様が飾るんだけど……」



 ソフィーの華奢な手が、一番最初のページに大きく描かれ、人懐っこい笑顔を浮かべるニコラを愛おしそうに撫でた。



「ふふ、ソフィーったら本当に嬉しそうね」

「ええ、つい。熱心に追いかけているわけではないけれど……、応援している人が主演を演じるというのは、やっぱり嬉しいものですね」



 照れくさそうに笑いながら、彼女は絵姿をぐいぐいとレティシアの手に押し付けてくる。



「ねぇレティ、気になる俳優とか、これを見たら見つかるかもしれませんよ」

「ええ? うーん、そうね……」



 パラパラとめくる手がひとつのページでとまる。



 少し赤みがかったミディアムブラウンの髪、がっしりとした肩幅に、丸みを帯びた顔というよりもはや丸い顔の俳優が、こちらに向かってぎごちなく笑いかけていた。


 その下には「アルベール・サロート」と書かれている。





「アルベール……ですか。なかなか珍しいところをいきますね。いつもは敵の部下役をよくやってるイメージかな」

「ああいや、特段気になったわけではないの。ただ、『吼え猛る鉄騎』にローラン様の愛馬の仔が出てくる場面があるでしょう?」



 レティシアは少し気恥ずかしくなって頬をかく。




「ふくよかで不器用そうなところとか、似ててちょっと可愛いなって」


「どこに行っても本当にローラン様にまつわる話題ばかり出てきますね、レティは」





 ソフィーが何度目かの呆れ顔をした直後、開演のブザーが鳴り響く。

 顔を舞台に向け、レティシアはふわふわとした金髪を耳にかけた。


 そこまで興味が実のところ持てないとしても、せっかく親友が誘ってくれた観劇だ。それなりの態度で挑まねば無礼というものだろう――。






 ─── ───






 演目『騎士団の大騒動』が始まると、劇場は一気に笑い声に包まれた。舞台では、主演のニコラ・ルルーが騎士団長として登場。人懐っこい笑顔を振りまきながら、「さあ、皆で王宮をピカピカにせい!」と威勢よく号令をかけるが、部下たちは次々とドジを踏む。

 燭台が倒れ、カーテンが裂け、王の椅子に泥が飛び散る中、ニコラが「まぁ、ええか!」とアドリブで観客を和ませ、劇場はさらに沸いた。ソフィーは「やっぱり素敵だわ」と呟き、眼鏡の奥で灰色の瞳を輝かせる。





 だが、レティシアの視線は別の場所に注がれていた。絵姿で見たあの男――アルベール・サロートが、三下騎士として舞台に現れたのだ。


 ふくよかな体型に糸目、少し赤みがかったミディアムブラウンの髪が汗で乱れ、燭台を倒して転げ回る姿に観客が笑う。





 だが、その時だった。仲間が燭台の下敷きになりそうになった瞬間、アルベールが驚きでその糸目を見開くのが見えた。


 恐らく、燭台がその挙動をする予定はなかったのだろう。アルベールと同じように騎士の鎧に身を包んだ劇団員が、迫ってくる燭台を見つめて固まってしまった。



 他の劇団員も焦ったようにそれに手を伸ばす――しかし、間に合わない。







 そのとき、アルベールは不器用に、けれど素早く、体を投げ出したのだ。彼のふくよかな体がクッションになり、燭台がカツンと跳ね飛ばされる。





「――お、お前ら、気をつけろよ!」




 鎧を着ていても振動が伝わったのだろう、彼は痛みに少し顔を顰めながらも、仲間に呼びかけつつ立ち上がる。


 そのぎこちない動作と、汗に濡れた丸い顔。


 決してスマートなアドリブではなかったそれが、レティシアの胸を突き刺した。

 



「私の英雄……! まるでローラン様みたい!」




 心の中で再び叫びが炸裂し、彼女は胸の前で手を握りしめた。あの瞬間、アルベールの姿が『吼え猛る鉄騎』のローラン・デュランと重なったのだ。

 貴族子弟の軟弱さとはまるで違う、泥臭くも健気な頑張り――それが、彼女の戦記オタクの血を熱く沸騰させた。






 公演が終わり、観客が拍手と笑い声を残して席を立つ中、レティシアは目を輝かせたまま動けずにいた。「アルベール様……」と呟き、ソフィーに目を向ける。



「ねえ、ソフィー。あの絵姿、もう一度見せてちょうだい!」

「え、ちょっとレティ?  どうしたの急に?」



 ソフィーが驚いて絵姿を差し出すと、レティシアはアルベールのページを指さし、決意を込めて言った。





「この人、私の英雄よ。絶対に会いに行くわ!」




 

 その言葉に、ソフィーは呆れつつも微笑んだ。



「本当に、あなたって人は……。でも、ニコラ様の主演がこんなきっかけになるなんて、面白いわ」


 レティシアはふわふわの金髪を揺らし、淡い水色のドレスを翻して立ち上がる。




「ソフィー、ありがとう。あなたのおかげで、私の戦場が始まったわ」




 ――こうして、彼女の猪突猛進な恋の戦いが、静かに幕を開けたのだった。


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