#4 「白銀の誓い」
凍てつく北風が窓を揺らす12月の午後、神谷探偵事務所の暖房が心地よい温もりを放っていた。机に向かって書類を整理する倉持エリザの横で、神谷幸司は熱々のコーヒーを啜りながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「幸司さん、今日こそ手伝ってくださいよ」
エリザの声に、幸司はゆっくりとカップを置いた。
「わかったよ。でもさ、エリザ。外を見てごらん。そろそろ初雪が降りそうだよ」
幸司の言葉に、エリザは小さなため息をついた。
「天気予報では今週末だと言ってましたよ。それより、この書類を……」
エリザが言葉を続けようとした瞬間、事務所のドアがゆっくりと開いた。
「すみません、お邪魔します」
声の主は、20代後半くらいの男性だった。黒縁メガネをかけ、少し緊張した様子で二人を見つめている。
「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」
エリザが立ち上がって男性を迎え入れた。
「どのようなご用件でしょうか?」
幸司も椅子から立ち上がり、丁寧に尋ねた。
「あの、実は……」
男性は躊躇いがちに口を開いた。
「婚約者のことで相談があって……」
「婚約者の方に何かあったんですか?」
エリザが優しく声をかけると、男性は首を横に振った。
「いえ、そうではないんです。婚約者が……婚約者が突然、結婚式をキャンセルしたいと言い出したんです」
幸司とエリザは顔を見合わせた。
「それは……何か理由があるんでしょうか」
幸司が静かに尋ねる。
「わからないんです。ただ、『今は結婚する気分じゃない』って……」
男性の声には、悲しみと戸惑いが混ざっていた。
「お名前は?」
エリザが優しく尋ねる。
「あ、すみません。中村ケンイチと申します」
「中村さん、婚約者の方のお名前は?」
幸司が腰を落ち着けながら聞いた。
「佐藤キリコです」
「キリコさんは、普段どんな方なんですか?」
エリザがメモを取りながら質問した。
「明るくて、優しくて……でも、少し内向的なところもあって。最近は仕事が忙しいみたいで、疲れているようでした」
ケンイチの言葉に、幸司は顎に手を当てて考え込んだ。
「結婚式の日取りは?」
「来月の20日です。もう招待状も送ってしまって……」
ケンイチは肩を落とした。
「分かりました。では、一度キリコさんにお会いしてもよろしいでしょうか?」
幸司が提案すると、ケンイチは少し驚いたように目を見開いた。
「え、はい。でも、どうやって……」
「ご心配なく。私たちにお任せください」
エリザが優しく微笑みかけた。
数日後、幸司とエリザは佐藤キリコの勤める花屋を訪れた。店内には色とりどりの花が並び、甘い香りが漂っている。
「いらっしゃいませ」
キリコが笑顔で二人を迎えた。
「こんにちは。実は……」
幸司が自己紹介をすると、キリコの表情が曇った。
「ケンイチさんが……」
エリザが優しく声をかける。
「はい……ごめんなさい。私、今……」
キリコの声が震えている。
「キリコさん、よろしければお話を聞かせてください」
幸司が静かに言った。
三人は花屋の奥にある小さな休憩室に移動した。キリコはお茶を淹れながら、ゆっくりと口を開いた。
「私、本当はケンイチさんが大好きなんです。でも……」
「でも?」
エリザが促す。
「最近、仕事が忙しくて。それに、結婚式の準備も大変で……」
キリコは俯いた。
「プレッシャーを感じているんですね」
幸司が静かに言うと、キリコはうなずいた。
「はい。それに、私……子供の頃からずっと、冬の結婚式に憧れていたんです。真っ白な雪の中で……でも、式場の都合で1月は無理で……」
キリコの目に涙が浮かんだ。
「それで、全部キャンセルしようと思ったんです。でも、ケンイチさんには言い出せなくて……」
エリザはキリコの手を優しく握った。
「キリコさん、ケンイチさんはあなたのことを本当に大切に思っています。きっと理解してくれますよ」
幸司は窓の外を見た。そこには、小さな雪の結晶が舞い始めていた。
「ほら、見てください。初雪です」
三人は窓際に立ち、静かに降り積もる雪を見つめた。
その瞬間、店のドアが開く音がした。
「キリコ!」
声の主はケンイチだった。彼は息を切らせながら休憩室に駆け込んできた。
「ケンイチさん……」
キリコが驚いた表情で振り返る。
「ごめん、キリコ。君の気持ちに気づかなくて……」
ケンイチは深く頭を下げた。
「え?」
「結婚式、延期しよう。君の夢の冬の結婚式を、一緒に作り上げたい」
キリコの目から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ケンイチさん……ごめんなさい。そして、ありがとう」
二人は強く抱きしめ合った。
幸司とエリザは、温かい気持ちで二人を見つめていた。
帰り道、エリザは幸司に尋ねた。
「どうしてケンイチさんに連絡したんですか?」
幸司は雪空を見上げながら答えた。
「ケンイチさんの話を聞いていて、彼がキリコさんのことを本当に愛していることがわかったんだ。きっと、キリコさんの本当の気持ちを知れば、理解してくれると思ったんだよ」
エリザは感心したように幸司を見つめた。
「さすが幸司さんです。でも、こんなケースもあるんですね。人の気持ちって、複雑です」
「そうだね。でも、本当に大切な人のことならば、どんな気持ちも受け止められるはずさ」
幸司の言葉に、エリザは静かにうなずいた。
雪が積もり始めた街を、二人はゆっくりと歩いていた。
「ねえ、幸司さん」
「ん?」
「私たちも、いつかこんなふうに……」
エリザの言葉は、途中で遮られた。幸司が突然、彼女の手を取ったのだ。
「エリザ、雪、きれいだね」
幸司はにっこりと笑った。その笑顔に、エリザの頬が赤く染まる。
「え、ええ……そうですね」
二人は言葉を交わさずに歩き続けた。でも、その沈黙は心地よいものだった。
事務所に戻ると、幸司は急に立ち上がった。
「よし、今日は俺が晩御飯を作るよ」
「え? また冗談ですか?」
エリザは笑いながら言った。
「いや、今回は本気だよ。寒い日は、やっぱり鍋だろ? 鍋だったら簡単だよ」
幸司はウインクすると、台所に向かった。
「あ、でも幸司さんだけだとやっぱり不安なので……手伝います!」
エリザは慌てて幸司の後を追いかけた。
雪の積もる窓の外で、街路灯が温かな光を放っている。今夜は特別な夜になりそうだ。明日はまた、新しい依頼が待っているかもしれない。でも今は、この穏やかな時間を楽しむことにしよう。
二人の笑い声が、雪降る夜空に優しくこだました。