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#3 「食卓の向こう側」

 金木犀の香りが漂う10月の午後、神谷探偵事務所の窓から差し込む陽光が、薄っすらと埃の舞う空気を照らしていた。机に向かって書類を整理する倉持エリザの横で、神谷幸司はぼんやりと窓の外を眺めていた。


「幸司さん、いい加減手伝ってくださいよ」


 エリザの声に、幸司はゆっくりと振り返った。


「ごめんごめん。でもさ、エリザ。外を見てごらんよ。秋晴れの空って本当にきれいだよね」


 幸司の言葉に、エリザは小さなため息をついた。


「確かにきれいですけど……仕事は仕事です」


 エリザが言葉を続けようとした瞬間、事務所のドアがゆっくりと開いた。


「あの、ごめんください」


 声の主は、60代くらいの女性だった。優しそうな目元に皺を寄せ、少し緊張した様子で二人を見つめている。


「いらっしゃいませ。どうぞお入りください」


 エリザが立ち上がって女性を迎え入れた。


「どのようなご用件でしょうか?」


 幸司も椅子から立ち上がり、丁寧に尋ねた。


「実は……」


 女性は躊躇いがちに口を開いた。


「私の夫のことで相談があって……」


「ご主人様に何かあったんですか?」


 エリザが優しく声をかけると、女性はかすかに首を横に振った。


「いいえ、そうではないんです。夫が……夫が変なんです」


 幸司とエリザは顔を見合わせた。


「変とは、どのように?」


 幸司が静かに尋ねる。


「最近、夫が急に料理を始めたんです」


 女性の言葉に、二人は少し驚いた表情を浮かべた。


「料理ですか? それは……良いことではないでしょうか」


 エリザが言うと、女性は困ったように眉をひそめた。


「はい、普通ならそうなんです。でも、夫は今まで一度も台所に立ったことがなかったんです。それが突然……」


「なるほど。いつ頃からそうなったんですか?」


 幸司が尋ねた。


「そうですね、1ヶ月ほど前からです。ある日突然、『今日から俺が料理する』って言い出して……」


 女性は少し考え込むように目を伏せた。


「奥様のお名前は?」


 エリザが優しく尋ねる。


「あ、すみません。木村サチと申します」


「木村さん、ご主人の様子で他に変わったことはありませんか?」


 幸司が腰を落ち着けながら聞いた。


「そうですね……料理以外は特に変わりません。ただ、去年あたりからスーパーには必ず一人で行くようになりました」


 サチの言葉に、幸司は顎に手を当てて考え込んだ。


「ご主人のお仕事は?」


「高校の数学教師をしています。でも、来年の3月で定年です」


 エリザがメモを取りながら聞いている。


「木村さん、ご主人の作る料理の味はどうですか?」


 幸司の質問に、サチは少し照れたように微笑んだ。


「それが……とても美味しいんです。不思議なくらい」


「へぇ、それは素晴らしいですね」


 幸司が感心したように言うと、サチはうなずいた。


「はい。でも、どうしてこんなに急に上手くなったのか……」


 サチの声には、不安と戸惑いが混ざっていた。


「分かりました。では、一度お宅に伺わせていただけますか?」


 幸司が提案すると、サチは少し驚いたように目を見開いた。


「え、はい。でも、どうやって……」


「ご心配なく。私たちにお任せください」


 エリザが優しく微笑みかけた。


 翌日、幸司とエリザは木村家を訪れた。サチが二人を出迎える。


「どうぞ、お入りください」


 サチに案内され、二人はリビングに通された。


「ご主人は?」


 幸司が尋ねると、サチは台所を指差した。


「料理をしています。今日は私がお若い友人を招待したことにして……」


 エリザがサチに向かってウィンクすると、サチは小さく頷いた。


 しばらくすると、エプロン姿の木村タケシが料理を運んできた。


「お待たせしました。今日のメニューは、秋刀魚の塩焼きと松茸ご飯です」


 タケシは少し緊張した様子だが、誇らしげに料理を並べる。


「わぁ、とても美味しそうです」


 エリザが感嘆の声を上げた。


「ありがとうございます。どうぞ、召し上がってください」


 タケシが促すと、全員が食事を始めた。


「本当に美味しいな!」


 幸司が感心した様子で言う。サチは複雑な表情を浮かべている。


 食事が進む中、幸司は何気なくタケシに話しかけた。


「木村さん、最近料理を始められたそうですね。きっかけは何だったんですか?」


 タケシは少し驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「ああ、実は……」


 タケシは少し躊躇いがちに口を開いた。


「来年、定年を迎えるんです。今までずっと仕事一筋で、家のことは全て妻に任せきりだった。このままじゃいけないと思って……」


 サチは驚いたように夫を見つめている。


「でも、どうしてこんなに急に上手くなったんですか?」


 エリザが尋ねると、タケシは少し照れたように頭をかいた。


「実は、毎日スーパーの二階にある料理教室に通っているんです。みんな主婦の方ばかりで、最初は恥ずかしかったけど……」


 幸司とエリザは顔を見合わせ、にっこりと笑った。


「なんで言ってくれなかったの?」


 サチの声が震えている。


「サプライズにしたかったんだ。定年後は、毎日妻に美味しい料理を作りたいと思って」


 タケシの言葉に、サチの目に涙が浮かんだ。


「あなた……」


 サチは思わずタケシに抱きついた。


 幸司とエリザは、温かい気持ちで二人を見つめていた。


 帰り道、エリザは幸司に尋ねた。


「どうしてタケシさんが料理教室に通っていると分かったんですか?」


 幸司は空を見上げながら答えた。


「ん? ああ、木村さんの手を見てごらん。包丁で切った跡が複数あったよ。最初の頃は結構深く切っちゃったんじゃないかな。それに、スーパーに一人で行くっていうのもヒントになったんだ」


 エリザは感心したように幸司を見つめた。


「さすが幸司さんです。でも、こんなケースもあるんですね」


「そうだね。人は変われるんだ。特に大切な人のためならいくらでも」


 幸司の言葉に、エリザは静かにうなずいた。


 秋の夕暮れ、二人は落ち葉を踏みしめながらゆっくりと歩を進めた。木村夫妻の姿が、きっと彼らの心に残る温かい思い出になるのだろう。


 事務所に戻ると、幸司は急に立ち上がった。


「よし、今日は俺が晩御飯を作るよ」


「え? 幸司さんが?」


 エリザは驚いて目を丸くした。


「ああ。木村さんに負けてられないからね」


 幸司はニヤリと笑うと、エプロンを手に取った。


「あ、でも幸司さん、料理をしたことは……」


 エリザが心配そうに言いかけると、幸司は大きく笑った。


「冗談だよ。今日はお疲れさま。おいしいレストランに連れて行ってあげるよ」


 エリザはほっとしたように笑顔を見せた。


「もう、幸司さんったら」


 二人は笑い合いながら、夕暮れの街へと歩み出した。秋の風が二人の髪をそっと撫でていく。明日はまた、新しい依頼が待っているかもしれない。でも今は、この穏やかな時間を楽しむことにしよう。



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