#2 「ビー玉の中の銀河」
真夏の陽射しが照りつける8月の午後、神谷探偵事務所の扇風機がかすかな音を立てて回っていた。汗だくになりながら書類を整理する倉持エリザの横で、神谷幸司は氷の入ったグラスを手に、うちわであおぎながらぼんやりとしていた。
「もう! 幸司さん、手伝ってくださいよ」
エリザの声に、幸司は我に返ったように身を起こした。
「ああ、悪い悪い。でもこの暑さじゃ、頭が働かないよ」
幸司が言い訳するように笑うと、エリザは大きなため息をついた。
「暑いのは私だって同じです。でも仕事は仕事ですから」
エリザの真面目な態度に、幸司は申し訳なさそうな表情を浮かべた。
「わかったよ。じゃあ、この書類を……」
幸司が手を伸ばした瞬間、事務所のドアが勢いよく開いた。
「たすけて!」
声の主は、10歳くらいの少年だった。汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、少年は必死の形相で二人を見つめている。
「どうしたの? 落ち着いて」
エリザが優しく声をかけると、少年は大きく息を吐いた。
「ぼくの宝物が……宝物が消えちゃったんだ!」
幸司とエリザは顔を見合わせた。
「宝物? どんな宝物なの?」
幸司が尋ねると、少年は恥ずかしそうに俯いた。
「ビー玉なんだ。でも、ただのビー玉じゃないよ! おじいちゃんがくれた特別なビー玉なんだ」
少年の目に、また涙が浮かんでいる。
「わかった。落ち着いて、ゆっくり話してくれるかな? キミの名前は?」
エリザが優しく尋ねた。
「田中タクヤです」
タクヤは少し落ち着いた様子で答えた。
「よし、タクヤくん。座ってお話しようか」
幸司がソファに案内すると、タクヤはおずおずと腰を下ろした。
「それで、そのビー玉はどんなふうに消えちゃったの?」
エリザが冷たい麦茶を差し出しながら尋ねた。
「昨日の夕方まで、ぼくの部屋の机の上にあったんだ。でも今朝起きたら、なくなってた……」
タクヤは必死に思い出そうとしている。
「誰かに盗まれたのかな?」
幸司が言うと、タクヤは首を横に振った。
「違うよ! ぼくの家族は絶対にそんなことしない。それに、家に泥棒が入った形跡もないんだ」
「なるほど……」
幸司は顎に手を当てて考え込んだ。
「タクヤくん、そのビー玉、どんな特徴があるの?」
エリザが尋ねる。
「えっと、透明で、中に小さな星みたいな模様がたくさんあるんだ。おじいちゃんが『銀河』って呼んでた」
タクヤの表情が少し明るくなる。
「そうか、きれいなビー玉なんだね」
幸司が微笑むと、タクヤは嬉しそうに頷いた。
「うん! だから絶対に見つけたいんだ。おじいちゃんの形見だから……」
タクヤの声が小さくなる。幸司とエリザは、再び顔を見合わせた。
「よし、分かった。僕たちが探してみよう」
幸司が立ち上がると、エリザも頷いた。
「タクヤくん、私たちについておいで。一緒に探してみましょう」
三人はタクヤの家に向かった。真夏の日差しが照りつける中、タクヤは必死に二人についていく。
タクヤの部屋に着くと、幸司とエリザは細かく観察を始めた。
「タクヤくん、昨日ビー玉で遊んでたの?」
エリザが尋ねると、タクヤは首を振った。
「ううん、昨日は暑くて外で遊んでたから、ずっと机の上に置いてあったはずなんだ」
幸司は部屋の隅々まで目を凝らしている。
「エリザ、ちょっとここを見てくれ」
幸司が指さす先には、小さな穴が開いていた。
「これは……ネズミの穴?」
エリザが驚いた様子で言う。
「そうみたいだね。タクヤくん、最近ネズミを見かけたことある?」
タクヤは首を傾げた。
「ないよ。でも、たまに夜中に『カサカサ』って音がするんだ」
幸司は、にやりと笑った。
「なるほど。じゃあ、ちょっと実験してみようか」
幸司はポケットから小さな鈴を取り出すと、穴の近くに置いた。
「さあ、静かにして」
三人は息を殺して待った。しばらくすると、かすかな物音がし、鈴が揺れ始めた。
「あっ!」
タクヤが小さく声を上げる。穴から顔を出したのは、小さなネズミだった。
「やっぱりね」
幸司が満足げに言う。
「でも、ネズミがビー玉を……?」
エリザが首をかしげる。
「ああ、ネズミは光るものや丸いものが好きなんだ。タクヤくんのビー玉は、ネズミにとっては最高の宝物だったんだろうね」
幸司の説明に、タクヤは目を丸くした。
「じゃあ、ぼくの宝物は……」
「大丈夫、探せるよ。エリザ、懐中電灯を貸してくれるかな」
幸司は床に寝そべると、穴に向かって懐中電灯を照らした。
「あった! 奥の方で光ってる!」
幸司の声に、タクヤは飛び上がらんばかりに喜んだ。
「でも、どうやって取り出すの?」
エリザが心配そうに言う。
「うーん……」
幸司が考え込んでいると、タクヤが小さな声で言った。
「ねえ、ネズミさんにお願いしてみたら?」
幸司とエリザは驚いた顔でタクヤを見た。
「そうだね。やってみよう」
幸司はにっこりと笑うと、穴の前にしゃがみこんだ。
「ねえ、ネズミくん。タクヤくんの大切な宝物なんだ。返してくれないかな? 代わりに、もっと素敵なものをあげるからさ」
幸司はポケットから、キラキラと光るビー玉を取り出した。
「これ、僕の大切なビー玉なんだ。君にあげるよ」
幸司がビー玉を穴の近くに置くと、しばらくして小さな鼻先が顔を出した。そして驚いたことに、ネズミは口にタクヤのビー玉をくわえて出てきたのだ。
「わあ!」
タクヤは目を輝かせた。ネズミは慎重に新しいビー玉を穴に運び込むと、タクヤのビー玉を置いていった。
「やった! 見つかったよ!」
タクヤは喜びながら、ビー玉を大切そうに手に取った。
「よかったね、タクヤくん」
エリザも嬉しそうに笑顔を見せる。
「ありがとう、おじさん! おばさん! そして……ネズミさんも!」
タクヤの目は今度は喜びできらきら輝いていた。
(おじさんと……おばさん?)
エリザはなぜか微妙な顔をしていたけれども。
◆
帰り道、エリザは幸司に尋ねた。
「幸司さん、あのビー玉……」
「ああ、あれか。実はね、僕のおじさんがくれた大切なものなんだ」
幸司は少し照れくさそうに答えた。
「えっ、そんな大切なものを!」
「いいんだ。タクヤくんの笑顔を見られて、十分だよ。それに、きっとおじさんもそう思うはずさ」
幸司の優しい笑顔に、エリザは胸が熱くなるのを感じた。
夏の陽射しは依然として強かったが、二人の心の中には爽やかな風が吹いていた。事務所に戻る途中、幸司は立ち止まってアイスクリーム屋に向かった。
「暑い日には、やっぱりこれだよね」
幸司がニッコリと笑いながらアイスを差し出すと、エリザも思わず笑顔になった。
真夏の太陽の下、二人はアイスを食べながらゆっくりと歩を進めた。今日一日の出来事が、きっと彼らの心に残る夏の思い出になるのだろう。