#1 「消えた音符の謎」
桜の花びらが舞う4月の午後、神谷探偵事務所の窓から柔らかな日差しが差し込んでいた。机に向かってうたた寝をしている神谷幸司の頬に、春の陽光が優しく触れる。
「もう! 幸司さんたら、またサボってるんですか?」
事務所に入ってきた倉持エリザの声に、幸司はゆっくりと目を開けた。
「おお、エリザか。違うよ、ちょっと目を休めてただけだよ」
幸司は伸びをしながら言い訳したが、エリザの鋭い眼差しは緩むことはなかった。
「お昼休みはとっくに終わってますよ。あと、机の上のお茶もとっくに冷めてますからね」
エリザはため息をつきながら、幸司の前に立った。その表情には怒りというよりも、困惑と愛情が混ざっているようだった。
「わかったよ、わかった。今から真面目に仕事するから」
幸司は笑顔で応じると、椅子に腰を落ち着けた。エリザは半ば呆れながらも、どこか安心したような表情を浮かべる。
「そうそう、エリザ。さっき電話があってね。新しい依頼が入ったんだ」
幸司の言葉に、エリザの目が輝いた。
「本当ですか? どんな依頼なんですか?」
「ああ、町の音楽教室の先生からなんだけど……」
幸司が説明しようとした瞬間、事務所のドアが開いた。
「あの、神谷探偵事務所でしょうか?」
小柄な中年女性が、おずおずと顔を覗かせた。
「はい、そうです。どうぞお入りください」
エリザが優しく声をかけると、女性は恐縮しながら中に入ってきた。
「私、町の音楽教室で教えている佐藤です。お電話したものですが……」
「ああ、佐藤先生ですね。どうぞ、お座りください」
幸司が立ち上がり、ソファへと案内した。佐藤先生は緊張した面持ちで腰を下ろす。
「それで、どんなご用件でしょうか?」
エリザが温かい紅茶を差し出しながら尋ねた。
「実は……私の教室に通っている生徒さんのことなんです」
佐藤先生は深呼吸をして、話し始めた。
「鈴木さくらちゃんという、小学5年生の女の子がいるんです。彼女はピアノがとても上手で、将来有望なんです。でも最近、レッスンを休みがちで……」
「何か問題でもあったんでしょうか?」
幸司が身を乗り出して聞いた。
「いいえ、特に問題があったわけではないんです。ただ、さくらちゃんが『音が聴こえない』と言うんです」
「音が聴こえない?」
エリザが首をかしげる。
「はい。『ピアノの音が聴こえない』って。耳に異常があるわけではないんです。普通の会話は問題なくできるし、聴力検査でも異常はありませんでした。でも、ピアノを弾こうとすると『音が聴こえない』って……」
佐藤先生の声には、生徒を心配する気持ちが溢れていた。
「なるほど……」
幸司は顎に手を当て、考え込んだ。
「佐藤先生、私たちにできることはありますか?」
エリザが優しく尋ねる。
「はい。さくらちゃんの様子を見てもらえないでしょうか? 彼女の家族も心配しているんです。どうか、さくらちゃんがまたピアノを弾けるようになる方法を……」
佐藤先生の目には、涙が光っていた。
「わかりました。私たちに任せてください」
幸司が力強く宣言すると、佐藤先生の表情が少し明るくなった。
「本当ですか? ありがとうございます!」
佐藤先生が帰った後、エリザは幸司を見つめた。
「幸司さん、どうするんですか?」
「そうだなぁ……まずは、さくらちゃんに会ってみようか」
◆
幸司の目には、いつもの優しさと、何かを解き明かそうとする探偵としての鋭い光が宿っていた。
翌日、幸司とエリザは鈴木家を訪れた。さくらの母親が二人を迎え入れる。
「さくらは2階の自室にいます。少し元気がないんです……」
母親の声には不安が滲んでいた。
「大丈夫です。私たちに任せてください」
エリザが優しく微笑みかけると、母親は少し安心したように頷いた。
さくらの部屋のドアをノックすると、小さな声で「はい」という返事が聞こえた。
「こんにちは、さくらちゃん。僕は神谷幸司、こちらは倉持エリザだ。佐藤先生から話を聞いて、君に会いに来たんだ」
幸司が優しく語りかけると、ベッドに座っていたさくらがおずおずと顔を上げた。
「あの……私、もうピアノ弾けないかもしれません」
さくらの声は震えていた。
「どうしてそう思うの?」
エリザが柔らかく尋ねる。
「だって、音が……音が聴こえないんです」
さくらの目に涙が浮かんだ。
「さくらちゃん、一緒にピアノのところまで行ってみない?」
幸司が提案すると、さくらは少し躊躇したが、うなずいた。
リビングに置かれたピアノの前に立つと、さくらは恐る恐る鍵盤に指を置いた。
「どう? 音は聴こえる?」
エリザが優しく声をかける。
さくらは首を横に振った。
「聴こえない……何も聴こえないんです……」
幸司はさくらの横に座り、優しく微笑んだ。
「さくらちゃん、ちょっと目を閉じてみて。そして、お母さんの笑顔を思い出してごらん」
さくらは言われるまま目を閉じた。
「お母さんが笑顔で『おかえり』って言ってるところを想像してみて」
幸司の声が静かに響く。
「そう、その笑顔。そして、その声。今度は、お父さんの笑顔も思い出してごらん」
さくらの表情が少しずつ和らいでいく。
「今、君の頭の中に浮かんでいる笑顔や声。それが『音』なんだよ」
幸司はゆっくりと語りかける。
「さあ、その気持ちのまま、ピアノを弾いてみて」
さくらは恐る恐る鍵盤に指を置いた。そして、ゆっくりと……一音、また一音と音を紡ぎ始めた。
優しい旋律が部屋に流れ始める。さくらの目から涙がこぼれ落ちた。
「聴こえる……音が聴こえたわ!」
さくらの声は喜びに満ちていた。
母親が駆け寄り、さくらを抱きしめる。
「よかった……よかったわ、さくら」
母親の目にも涙が光っていた。
◆
帰り道、エリザは幸司に尋ねた。
「どうしてあんなことを? さくらちゃんの問題が何かわかったんですか?」
幸司は歩みを緩め、穏やかな表情でエリザを見た。
「ああ、なんとなくね。さくらちゃんの様子を見ていて、彼女が抱えている問題が見えてきたんだ」
「具体的にはどういうことですか?」
エリザの目は好奇心に輝いていた。
幸司は近くのベンチに座り、エリザに隣に座るよう促した。
「さくらちゃんが『ピアノの音が聴こえない』と言い始めたのは、おそらく彼女が何かプレッシャーを感じていたからだと思う。音楽教室の優等生で、周りからの期待も大きかったんじゃないかな」
エリザは頷きながら聞いている。
「そのプレッシャーから、彼女は無意識のうちにピアノの音を『聴かない』ようにしていたんだ。これは一種の防衛反応さ。プレッシャーから逃れるために、彼女の心が作り出した安全壁なんだ」
「なるほど……。でも、なぜお父さんとお母さんの笑顔を思い出すことで、その壁が取り払われたんですか?」
幸司は優しく微笑んだ。
「そう、音楽は、技術だけじゃない。感情を込めて演奏することが大切なんだ。さくらちゃんは、きっと完璧な演奏を目指すあまり、音楽を楽しむことを忘れていたんだと思う」
「そして、両親の笑顔を思い出すことで……?」
「そう、両親の笑顔を思い出すことで、さくらちゃんは音楽の本当の意味を思い出したんだ。音楽は人の心に響くもの。技術的に完璧でなくても、気持ちを込めて弾けば、それは素晴らしい音楽になる」
エリザの目が理解に満ちて輝いた。
「つまり、さくらちゃんは音楽を通じて人を幸せにすることの喜びを思い出したんですね」
「そのとおり。両親の笑顔を思い出すことで、さくらちゃんは自分が音楽を演奏する本当の理由を思い出したんだ。それが、彼女の心の壁を取り払い、再び音を『聴く』ことができるようになったんだよ」
エリザは感心したように幸司を見つめた。
「幸司さん、すごいです。そんなこと、どうしてわかったんですか?」
幸司は少し照れくさそうに頭をかいた。
「実は、僕も昔、似たような経験をしたことがあってね。だから、さくらちゃんの気持ちがよくわかったのかもしれないね」
「え? 幸司さんが?」
エリザは驚いた表情を浮かべた。
「まあ、それはまた別の機会に話すよ。まあ今回は、さくらちゃんが元気になってよかったってことさ」
幸司は立ち上がり、事務所への帰路を再開した。エリザは、普段は見せない幸司の一面を垣間見て、彼への理解がさらに深まったように感じた。
春の柔らかな風が二人の周りを包み、桜の花びらが舞う中、彼らは穏やかな気持ちで歩を進めた。
その日の夕方、佐藤先生から電話があった。
「さくらちゃんが、また元気にピアノを弾き始めたそうです。本当にありがとうございました!」
幸司とエリザは顔を見合わせて微笑んだ。
窓の外では、桜の花びらが風に乗って舞っていた。春の優しい音色が、町全体を包み込んでいるようだった。