いきなさい
本日2話目の投稿です。
「早く、早くしなさいっ!!」
いつもは冷静な彼女がこれ以上無く焦っている。初めての出会いから3年経って、彼女はますます美しさを増していた。けれど、今はその眉間に深い皺を刻んで険しい顔をしている。
シュネージュ・ルミファーダ――隣の小国、ルミファーダの第3公女であった彼女は、私の父であるイーリス国王に後妻として娶られたので,今はシュネージュ・イーリスが正しい名前だ――は私の継母でこの国の王妃である。
輝く銀髪を複雑に結い上げて,気品あふれるドレスに身を包んだその姿が彼女の決意を表していた。彼女はここに残るつもりだ。つまり,私だけを逃がそうとしている。この国の王女として、その決定に否やを唱えることはできない。けれども,これが今生の別れになるかもしれない。私はただただ手を伸ばして温もりを求めた。
「ネージュ様、ネージュ様っ……。」
父と私だけが許されている愛称をひたすら呼ぶ。私を見つめる瞳には涙が浮かんでいるが、気丈な彼女がそれをこぼすことは無い。幼い私はどんな言葉も選べなくて、精一杯の愛を込めて彼女を見つめた。出会えた喜びも別れの悲しみも、不安も憤りも感謝も無力感でさえも、すべてを「大好き」という気持ちに込めて。
彼女の真っ白でスラリと長い指が私の手を軽く優しく労わるようにさする。それから、私の長い黒髪をそっと一撫でして、彼女は大きく息を吸うとひと言――
「いきなさい。」
と言った。
彼女の声は聞いたことが無いほど力強く響いた。その言葉に押されるように私を抱える男は走り出す。彼女の手の感触が髪の先から零れ落ちる。嫌だと叫びたかった。一緒に居たいと縋りたかった。でも、それが叶わない事は十分に分かっていた。叶わぬ願いを口にしてはいけない事も理解していた。王族としての矜持の為に彼女はここに残らなくてはならないし、王族としての責務の為に私は何としても逃げきらなくてはならない。
「姫様、しっかりとおつかまりください。」
私を抱える男はそう声をかけると、返事も待たずに馬に飛び乗り走り出した。
これが私の逃亡生活の始まりの夜のこと。
男は一晩中馬を走らせ、日が昇ってから街に寄った。その街の外れにあるボロボロの小屋にはシュネージュ派の貴族が手配した人物が二人、私たちの到着を待ちわびていた。私は髪を肩口で切られ、粗末な服に着替えた。腰まであった生まれてから一度も切った事の無い髪は壁から差し込む朝陽に当たってツヤツヤと光っている。
それまで着ていたドレスは置いていくと説明された。それはそうだろう。王城での普段着とはいえ、私のドレスは市井ではあまりに目立つ。持って行っても使いどころがない。代わりに新しい馬と食料、いくらかの逃亡資金を得る。それを悲しいとは思わなかった。命と引き換えに失うなら髪もドレスも大したものじゃない。
私を抱いていた男も豪奢な刺繍が施されたロイヤルブルーの詰襟を脱ぎ捨て,生成り色のシャツや灰色のベストに着替えている。さらにフード付きの長い茶色いマントを羽織ると,マントの中に私を隠した。
変わらないのは男のぶら下げている剣と、私の首にかけられたネックレスだけだ。王家の紋章が入った小さなネックレスはいざという時、私の出自を示す大事な証拠となる。それだって外からは見えないように服の内側に隠した。騎士の剣を長いマントに隠した男が猟銃を背負えば狩人に見えなくもない。
一連の支度をあっと言う間に終わらせた男は休憩もそこそこに用意された馬に飛び乗った。小屋で待っていたくれた二人のうち男性の方は私たちに同行した。女性の方は残って小屋を掃除し、私たちがいた形跡を消してくれるらしい。
お尻が痛いとか馬上は怖いとか、そういう感情はどこか遠くに押しやられていた。馬を限界まで走らせては街で乗り換え、走らせてはかえして、大きな街を見かけなくなってきた頃一度追っ手に見つかった。私の護衛は2人。対する追っ手は5人と形勢は不利かと思えたが、てこずることなく撃退した。ネージュ様の近衛騎士はとてつもなく強い。
あっと言う間に仲間4人が地に伏す様を見て,最後に残った者は逃げ出した。護衛の一人はそれを追う。ここで私を見たと反乱軍に知られるのはマズいからだ。小さくなる背中に武運を願いつつ、私は城から連れ出してくれた騎士とともに先を急いだ。
逃亡の旅はある意味新鮮で、私は生まれて初めて草むらで用を足したり、馬上でパンを食べたり、水筒に直接口をつけて水を飲んだりした。それが、不思議と嫌ではなかった。嫌だとか怖いとかいう感情はとっくの昔に振り切れていて、感覚が麻痺していたのかもしれない。もう王城での贅沢で華やかで格式ばった生活には戻らないのだと実感していた。
逃げ始めてから2日ほど経ったのだろうか。いつの間にか街道からそれて森に入った。森に入ってすぐの頃、また追っ手に見つかった。今度は3人。街道の時と違い騎士は苦戦していた。無理もない。私を抱えながら数日徹夜で馬を走らせてきたのだ。体力も気力も限界だろう。
――それでも、彼は追っ手を退けた。
敵の持っていた食料と水を失敬して、馬も乗り換え、私たちは森の奥へ奥へと進んだ。そのあとは馬を潰さない程度に速度を落としたが、さらなる追っ手に見つかることは無かった。けれど進めば進むほど、騎士の顔色は悪くなっていった。
森に入った日の夜、小さな洞窟を見つけると彼は馬から降りた。
「夜明けまでここで休みましょう。」
騎士の言葉にすぐさま頷いた。彼の体調は誤魔化しようも無いところまで悪化しているようだった。手近な木に馬をつなぎ、2人で洞窟に入って腰を下ろした。地面に座った私は洞窟の壁に背中を預け,天井を仰いで目を閉じた。私も疲労困憊で,目を開けているのも億劫だった。
小さく痛みに耐えるようなうめき声がする。ハッとして騎士の方を確認すると,座っているのも辛い様で,ずるずると崩れ落ちるように寝ころぶところだった。慌てて近くに寄ってどこが痛むのかと聞いても答えは返ってこない。息苦しそうに荒く息を吸ったかと思うとぐっと奥歯をかみしめている。水筒を口元に持って行っても、水も飲めない。顔色もこれ以上ないくらいに悪い。噴き出す汗の量も普通ではない。
オロオロとするばかりの私に彼は小さな声で「落ち着いてください」と言った。
「良いですか。姫、良く聞いてください。朝日が昇ったらここから太陽を背にして進んで下さい。日が真上にくる前に森を抜けられるので、そうしたら今度は森を右手に見ながら走って下さい。きっと一刻もせずに街道が見つかるので街道を森を背にして進んで下さい。1番はじめの村に迎えの者がいます。ラキという女を探して下さい。」
私は不安で真っ青になっていたと思う。
「あなたは?」
「残念ながら、私はこの先へは行けそうにありません。お恥ずかしながら、もう体が思うように動かないのです。」
かろうじて泣き叫ばずにいられたけれど、彼にかける言葉は1つも見つけられなかった。
「なぁに、大丈夫です。もう国境は超えました。しばらく追っ手は来ませんよ。」
そういって、騎士はこの旅の中ではじめて笑った。城では隙なく整えられていた茶色の髪は乱れきっているが、そのすき間からのぞく群青色の瞳は全く変わらず優しい色をしている。名前も知らない継母の騎士……他国から来たにも関わらず、私にも温かな視線を送ってくれた珍しい人。彼は懐から短剣を出すとお守りだと言って差し出した。
「姫、どうぞご無事でいて下さい。どうか、どうか、幸せに……」
私が短剣を受け取ると、彼は小さく微笑んだ。はなむけの言葉を最後まで紡げないまま、彼のまぶたがゆっくり閉じる。
「待って。目を開けて!」
いくら呼んでもゆすっても、男はピクリとも動かなかった。浅い呼吸はか細く今にも止まってしまいそうだ。私は彼を呼び続け、マントで包んだり、残っていた水を飲ませたりしようとしたけれど、なんの成果もないまま朝がきた。朝日が差し込むともらった短剣のつかの飾りがキラリと光った。持ち上げて確認するとアルフレッド・サフェスと名が刻まれていた。
私は短剣を両手で握りしめて、洞穴を出る。