ルドルフいる~
ヴィティ→アルフレッド視点です。
昨日の夜から降り続いている雨がレースのカーテンのように庭の景色をぼんやりと頼りない色に変えている。雨の森は暗く、ひっそりとしていて、大きな音を立ててはいけないような、そんな気分になる。
私がこの家に来てからはじめての雨だ。いつもは何かと忙しそうに動き回るレニアスは空き部屋に入ったまま出てこない。アルフレッドも今日は身体を休める日と定めたらしくて、リビングの一角で本を読んだり、剣の手入れをしたり。シューは保存食の作り置きをするとかで台所で作業中。手伝うと言ったけれど、保存性を高める為に触らない方がいいとかなんとか断られてしまった。何をしようかと悩んでいたらシューがそれは立派な裁縫箱を出してきて、これで遊べばと言うから、裁縫箱の中にあった無地のハンカチの隅に小さな刺繍を入れている。
城では淑女のたしなみとして刺繍をする時間があった。私はまだ小さいので針やハサミの扱い方を覚えればいいという段階であったが、一緒に作業する侍女やネージュ様は上手だったと思う。イーリス王国には結婚式の時に花嫁が嫁ぎ先に刺繍のプレゼントをする風習があったので、手先が器用になる7、8歳ごろから女の子はみんな刺繍を習う。それは貴族も平民もだ。まだ、ちゃんと習ったわけでは無いから我流だが、みんなの刺繍を見ていたのだからちょっとくらいはできる……はずだ。
布用の鉛筆で布に直接下書きをして、その中を色糸で埋めていく。端から順番に、一定の方向に、すき間を開けずに……刺繍が上手な侍女の声が耳の奥で聞こえてくる。――糸をねじらず真っすぐ、ゆるくてはだめ、でも引っ張りすぎずもだめ。下書きをはみ出ないように、一針一針確認して、そうそうお上手ですね――。手元がよく見える明るい部屋に女ばかりが集まって、色とりどりの絹糸を並べてあの色がいいこの色がいいと相談しもって、手を動かしながらおしゃべりに花を咲かせ、楽しそうに刺繍をさす貴婦人たち。私も仲間にいれてもらって、たいして練習もしなかったけれど、少しずつ少しずつ絵が浮かび上がっていくのを飽きずに見ていた。もう戻れないと思うと心がツキンと痛む。あの場所が今も手の届くところにあったなら、私はこんなにも思い焦がれただろうか……?
「ヴィティ?」
レニアスに呼ばれて、ふわっと意識が戻ってくる。レニアスは目の前にいて、こちらをのぞき込んでいる。
「どうしたの?手が止まってるわ。」
「あ。」
そう言われて手元を見ると、下書きの線をかなり外れたところから糸だ出てしまっていた。
「うーん、失敗したな。ぼーっとしてた。」
「あら、大丈夫?」
「うん。やりなおすから大丈夫。」
「……つまらなかったら、やらなくてもいいのよ?」
レニアスの言葉にびっくりする。刺繍がつまらないなんてことあるのだろうか?
「いや、つまる。刺繍は好きだから。」
「そう。ならいいけれど。」
あんまり根を詰めちゃだめよ。と言い残してレニアスは自室に入っていった。けれどもすぐに戻ってくる。手にはローブをもっている。そういえば、いつの間にか化粧もしている。朝はしていなかったのに。
「どこかいくのか?」
その様子を見たアルフレッドが聞いている。確かに外出準備をしているみたいに見える。
「えぇ、帝都の店に作った商品を持っていこうとおもって。在庫が無いみたいだったから。」
「この雨の中を?大丈夫なのか?」
アルフレッドは少しだけ眉間にしわをよせている。雨の森はぬかるんだり川が増水したり、危ない事が多いらしい。
「えぇ。大丈夫よ。夕方には帰れるでしょうし。」
レニアスは何てことないといった風にそういうけれど。もうお昼ご飯を食べてからしばらく経っている。そんなに短時間で行き来できるのだろうか?この間疑問に思ったことを聞いてみる。
「レニアス、この家は森の浅いところにあるのか?」
「うん?そんなわけないじゃない?」
「いや、姫の疑問は最もだ。この家から街までどのくらいかかるんだ?」
「あー……そういうことね。心配ないわよ。この家は森のほとんどど真ん中の、イーリス王国からも帝国からも人がやってくるのには早くても3日くらいかかる場所にあるから。」
レニアスは心配いらないわと自信満々に言うけれど、私のアルフレッドも何を言っているのか意味が分からない。
「じゃあ、どうやって夕方までに帰るんだ。」
戸惑う私たちにレニアスは真っ赤な唇と引き上げてニタリと笑った。
「何言っているの私は魔女よ。空をひとっ飛びにきまってるじゃない。」
「うわぁ。本当に竜だ。」
隣から姫の呆けた声が聞こえるが私も同じ気持ちだった。文字通り、開いた口がふさがらない。目の前には立派な体躯の黒竜がいて、こちらをヒタリと見下ろしていた。金色の瞳の真ん中の縦に細長い瞳孔が一瞬だけ細くなり、反射的にギクリと体が強張る。
空を飛べると聞いた時はまさかと思った。仲良しの竜がいると聞いた時はまた人をからかってと呆れた。竜はほぼ伝説といって良い生き物だった。世界に数えるほどしか確認されておらず、人里離れた位置に住んでいて人の住む場所まで降りてくることはまずない。たまに空を飛んでいる竜の姿が目撃される場所もあるが、神格化されて崇め奉られている。レニアスの言葉を信じて竜を見たいとねだった姫にどうするつもりなのかと傍観していたら、あれよあれよという間に4人で森に出ることになった。
雨の中を10分ほど歩くと森の中に一部不自然に開けたスペースと大きな洞窟があった。レニアスが洞窟に向かって
「ルドルフいる~?」
と声をかけるとのっそりと黒竜が現れた。
黒竜を見上げる姫を背にかばい、足を踏みしめ腰に手をやって、剣を置いて来たことを思い出す。「剣をもってたら思わず使っちゃうかもしれないから」とレニアスが帯剣を頑なに許さなかったのだ。
「アルフレッド、だめよ。ルドルフはこわがりなんだから。」
レニアスの言葉にハッとして気合で戦闘態勢を解く。こいつはレニアスの友達、レニアスの友達と心の中で常に確認しないと、じっとしているのも辛い。そのくらい黒竜の存在は巨大で威圧的で恐怖心をガツガツと揺さぶってくる。
「ルドルフ、ヴィティとアルフレッドよ。私の家の新しい住人なの。覚えてね。」
長い首を折り曲げて顔を近づけてきた黒竜の真っすぐに突き出ている鼻先をレニアスは馬を撫でるかのように撫でてくすぐっている。レニアスに撫でられると黒竜の目がふにゃりと細められて、それは気持ちよく寝ている猫みたいだった。あぁ、ほんとうに竜にのって空を飛ぶんだな。レニアスの話と竜の存在がストンと心の中に落ち着いた瞬間だった。
「ルドルフ、こんにちは。」
「はじめまして。よろしく頼む。」
シューがそうして黒竜に挨拶するのを見て、姫も挨拶をしている。私もその場でペコリとお辞儀をした。そうすると黒龍もペコリと頭を下げる。もう驚くことなど無いと思っていたがそんなことは無かったらしい。その辺りの突然襲ってくる獣とは違う、賢い生き物なのだ。
「この子がいるから、この森のこの辺りは大型の獣が少なくて住みやすの。」
そう言われて納得する。黒竜の縄張りで生活したい獣などいないだろう。相手がその気になれば尻尾の一振りでいのちを奪われかねない。
「ヴィティもアルフレッドもそのうちルドルフに乗る機会もあるだろうけど、今日はこんなお天気だからまた今度ね。」
そう言われてホッとする。情けないとは思うが怖さが先にたって、近寄りたいとは思えないからだ。姫もコクンとうなづいた。
「じゃあ、私は行ってくるわ。家まで帰るのきをつけてね。」
そういうとレニアスはルドルフの首にしがみついた。ルドルフはそのまま首を持ち上げると背中を振り返り、レニアスを首の付け根辺りに下す。
「行ってくるわ。」
レニアスが手を振るとルドルフの体が風も起こさずにふわりと舞い上がり、あっという間に木々の向こうに飛び去ってしまう。遅れてケーンという鳴き声がした。シュー曰くルドルフの声なのだそうだ。
家に戻るとタオルで良く体を拭いてから、温かいお茶をのんだ。シューが甲斐甲斐しく姫と私の世話をしてくれるが、私は竜との出会いの衝撃からまだ平常に戻れないでいた。姫は興奮した様子で「かっこよかった」と何度も何度も言っている。
「なぁ。魔女ってみんな竜で飛ぶのか?」
「いや、僕知らないよ。」
私の疑問にシューがあきれ顔で返事をする。
「そうだよな。普通ほうきだよな。」
「それもたいがい変な話だよね。僕はほうきで飛ぶ魔女見たこと無いよ。」
世の中にはまだまだ知らないことが多いらしい。
のんびり更新ですが,お付き合いいただき嬉しいです。