逃げるは恥だが楽になる
「今日この場で王太子アランの名において、公爵令嬢イザベラとの婚約を……おい、待て! イザベラ! どこへ行くんだ!」
私は、彼の言葉を最後まで聞くことができず、制止を振り切り、パーティー会場を走って逃げだしてしまいました。何度か躓いて転びそうになりながらも、学園の廊下を駆け抜けていきます。すれ違う生徒達は、皆一様に目を丸くして驚いています。
本当に恥ずべき振舞いだと思いましたが、それでもあの場にあと一秒でも留まっていたら、きっと湧き上がる悲しみを堪え切れずにうずくまって泣き出してしまっていたでしょう。
こうやってすぐ辛いことから逃げ出して楽になろうとするから、アラン様から見放されてしまったのでしょう。最近、王子の心が私から離れていることは分かっていました。お茶会の時も、どこか心あらずという雰囲気で、私も釣られてなんだか気まずくなり、理由を尋ねるどころか上手く話しかけることさえ出来なくなっていましたし。
それでも、どうにか良い婚約者であろうと、王太子妃教育からは逃げ出さずに、精一杯努力してきたつもりだったのですが。もしかしたら、どなたか別に好きな女性でもいらっしゃるのでしょうか。一番大切な『自分の気持ちと向き合うこと』から逃げ出してしまった私への報いなのでしょう。もし、私が彼に好きになってもらう努力を惜しまなければ、このような結果には、ならなかったのかもしれませんね。
それにしても、卒業パーティーの場で婚約破棄を切り出されるなんて思いもしませんでした。いくら未来の王太子候補といえども、流石にあそこまで勝手なことをすれば、ただではすまないはずです。そこまでして婚約を白紙に戻すことを選ぶ程、アラン様から嫌われてしまっていたのでしょうか。
がむしゃらに走っている間に、気付けば学園の離れにある庭園まで辿り着いていました。たとえ、あの場から逃げ出したところで何の意味もないことくらい分かっています。もう少しだけこのベンチに座って心を落ち着かせたら、すぐ会場に戻りましょう。逃げ出してしまったことを誠心誠意謝罪し、今度こそ自分の運命を受け入れなければ。
ひょっとすれば私の無礼な振舞いの方が問題になって、アラン様が行おうとした一方的な婚約破棄の咎を受けることもなくなる可能性もあります。そう考えれば、私の恥ずべき遁走も、少しは役に立ったのだと信じたいです。最後に彼のお役に立てたのなら、それ以上の喜びはありません。
たとえ、アラン様から疎まれていたとしても、彼は私が人生で唯一好きになった大切な人なのですから。
「やっと見つけたぞ、イザベラ! ……全く……どうして逃げ出したんだ……ドレス姿にハイヒールで走るなんて、転んで怪我でもしたらどうする!……大丈夫か?」
「あっ……アラン様……」
息も絶え絶えな様子のアラン様。ここまでわざわざ追いかけて来られるとは思いませんでした。それに、こんな時にも私の心配をしてくださるなんて。ほんの一瞬だけ浮かれてしまい、慌てて反省します。
もう私には彼の傍にいる資格はないのです。大丈夫、先程から心の中で何度も練習したのですから。
「……逃げ出してしまい、本当にすみませんでした。でも、もう覚悟は出来ました。謹んで、婚約破棄を受け入れます」
言葉と裏腹に溢れんばかりに目に涙を湛えてしまっているのは勘弁してください。こうやって、向き合っているだけで、本当は号泣してしまいそうなのですから。でも、最後ぐらい逃げるのをやめなければ。彼の記憶に残る私が、後ろ姿だなんて悲しすぎますから。
「……一体何を言っているんだ?」
「……ですから、会場での婚約破棄の続きをなさるのでしょう……?」
「婚約破棄なんてする訳がないだろう! 僕は、君との婚約を改めて再宣言しようとしていたんだ!」
「再宣言……?」
彼の言葉の意味が理解できず、呆けたように、そのままオウム返ししてしまいました。
「ああ! ……僕達の婚姻は、王家と公爵家によって決められた政略結婚だ。でも、そんな契約上の関係ではなく、本当の意味でイザベラと心が通じ合った夫婦になりたいからこそ、もう一度君との婚約を結び直したかったんだ……僕は、自分の意志で君を選び、生涯を添い遂げたいと心の底から思っている!」
「……そんな……だって……最近はお茶会だって気もそぞろでいらっしゃいましたし……」
「それは……君と初めての顔合わせの時に、偉そうに宣言してしまっただろう? 『これはあくまでも契約なのだから、その心づもりでいてほしい』なんて」
彼の顔がみるみるうちに赤くなっていきます。
「子供のくせに人一倍その頃から自尊心が高かった僕の照れ隠しだったんだ。そんなセリフを吐いておいて、今更君のことが好きになっただなんてことを、厚かましくて言えなかったんだ。未だに素直に謝ることが出来ず、あんなやり方で気持ちを伝えようとして君に誤解させるなんて、結局成長できていないことを思い知ったよ。本当にすまなかった……」
そういえば、そんなことを仰っていた気もします。引っ込み思案な私への、不器用なアラン様なりの優しさだと受け止めていたのですが、そこまで気になさっていたなんて思いませんでした。
「君が僕の元から走り去ったのを見て、これは自分の気持ちに真っ直ぐ向き合うことから逃げ出した罰が当たったのだと思ったよ。生徒達に尋ねながら必死になって追いかけている間、もう君に会えないのではないかと思うと頭がおかしくなりそうだった」
何だか私と似たようなことを同じタイミングで考えていらっしゃったことが嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちです。
「それでは……私は、これからもアラン様の婚約者でいられるのですか?」
「当り前だ! 嫌だと断られても、毎日許してくれるまで、頭を下げ続けて拝み倒すつもりでいる」
「……ふふっ。それではとてもお断りすることは出来ませんね……どうか、私をあなたの傍においてください」
「勿論だ! こちらこそ、君にお願いする。どうか、このプライドばかり高くてどうしようもない僕を、隣でずっと支えてほしい」
「……ええ、喜んで」
私は泣き笑いしながら、アラン様の手を取りました。
逃げるは恥ですが楽になります。でも、ほんの少しだけ勇気を出して向き合うことができれば、愛になるのかもしれません。
「マジでショックです! まぁでも幸せなら……OKです!」(微笑み、力強く親指を立てながら溶鉱炉に沈んでいく作者)