第十一話「野の花として」
(三十一)
午後三時といえ辺りは暗く、ののの家の屋根には雪が十五センチメートルは積もっていたが、細く突き出た煙突から煙がゆるゆると立ち上り、窓からはあたたかそうなランプの淡い光が漏れていた。
狭い部屋に、剣兵衛や石上の女神や赤い顔をした少年、そして黒猫と白フェレットのスッケが、急ごしらえのベッド上で眠る雪子、月美、ののを見つめながら黙っている。
やがて剣兵衛が重い口を開いた。
「スッケ殿の申されることは、よくわかる、だが、いつまでも逃げた所で何も変わりはせぬ、ここは我らに下駄を預けてはくれぬか」
「俺達がいるから、この人間のガキも今回のようなつらい思いをしなければならない。ののは気は強いけど、魔女の覚悟のない娘だ、俺だって……」
口をつぐんだスッケに、石上の女神は言葉を添えた。
「覚悟がなければ、あのような己の身を犠牲にしてまで友は守れぬはず、これから長く苦しむ人生をおくらねばならぬのなら、この娘に必要なものは信頼できる友との思い出であろう」
会話を聞いていた猫のきょろりがしっぽを無意識に動かした時、月美からもらったビー玉が音を立てて床に落ちた。
スッケの脳裏に笑いながらビー玉を贈る月美の笑顔が浮かんだ。
「お主も娘を守護せねばならぬ運命に殉じようとしている、お主だって娘以上につらい人生をおくってきただろうに」
六角牛の女神の何気なくかけた言葉に、スッケは再び声をださずに泣いた。
「おいらにはわからない、でも、こうして人間の友達の必死の思いを捨てちゃうことが、本当に人を救える人になるのかな……何て……あ、もうこの子は魔女か……あの……おいらわからないんで、川に入浴にいってくるね、でもこの人間のお姉ちゃんは真剣においらを守ってくれた……おいら、そんな心のきれいな人は悲しませたくないな」
赤い顔の子供は、その場の席を立って、雪の降る戸外へ出て行った。冷たい空気が部屋に流れ、寝ているののの頬をさすった。
「つっき……雪子さん……」
「のの……」
目を覚ましたののへ、スッケは緊張ぎみに声をかけた
「スッケ……私……どうしたの?」
「この神様達が助けてくれたんだよ、つっきも雪子も大丈夫だよ!」
ののはベッドから身体を起こし、ゆっくり顔を上げた。
「みなさん……ありがとうございました……そして、ご迷惑をおかけしました、私はこの地からすぐに出て行きます……本当にお許しください……」
一番近くにいた石上山の女神は、のののその言葉を聞いて彼女の頬を強くはたいた。予想してもいなかった出来事に周囲の者は目を丸くした。
「お主が今でていくことで、誰が喜ぶのか、誰が悲しむのか、わかるであろう、お前の虫の如き命は、わらわ達が拾わせていただいた、そして、わらわの生意気な妹もまた、お主のために時穴をふさぎに行っている、なぜだか、考えることはできるか、いくら病み上がりとはいえ、そのような勝手な言葉と振る舞いは許さぬ」
いつも柔和な顔の女神の顔が怒りに紅潮していたが、わっと泣くののを見てやがて口調が柔らかくなっていった。
「よいか……人から……いや万物から受けた恩は万物に返さねばならぬ、わらわ神と崇められる者とて、その情けのつながりを忘れてはならぬと戒めておる、お主の悲しい思いは決して消えはせぬ、だが、その悲しい思いに縛られることはないのだ……そのような天の決まりなどは存在せぬ、賢いお主にはわらわの言葉の意味がわかるな、もうすぐ、お主を慕うこの人間の娘らは目を覚ます、お主がはじめてかける言魂は別れの挨拶か……それとも……」
途中で言葉を句切った石上山の女神は、六角牛の女神と顔を見合わせ、部屋の中から音もなく姿を消した。
「スッケ殿、人間の娘子の死の記憶は消してある、ご安心めされ、拙者、天狗森の社の中でしばし休ませてもらう」
剣兵衛も白い煙となって、部屋から去った。
月美と雪子はほぼ童子に目を覚ました。二人の視界に見覚えのある小さな泣き顔があった。
「あれ?ここ……ののの家?のの……お前勝手に先に行くなよ」
「でも、ののちゃんとまた会えて嬉しいよ、ののちゃん、心配したよ」
二人は自分の場所を疑問に感じる前に、ののへ優しく言葉をかけた。ののは大声を上げて二人をベッドの上で抱きしめて泣いた。
「のの、どうしたんだよ」
「ののちゃん、何で泣いているの……ののちゃんが泣いていたら私だって……」
三人の娘の泣き声を聞きながら、スッケは落ちていた自分のビー玉を拾った。
「もう少し、遊べそうだね」
きょろりの声は雪子達には猫の鳴き声にしか聞こえない。
「本当にいいのか……」
スッケの声にきょろりはまた鳴いた。
「気にするなよ、友達だろ?」
針葉樹の森の匂いをかすかに含んだ風が、舞い落ちる雪を軽く横に流していった。
(三十二)
パイプオルガンの暗い単調的な旋律が礼拝堂のいびつな壁に一音、一音溶けていく。壁の蝋燭台のうち数本の灯が風もないのに消え、細い煙の筋が螺旋を巻いた。
トゥーレット大司祭の骨のような指が鍵盤の上で止まった。
「魔女の小娘、一人葬ることもできずに夢魔が逝ったか……役立たずめ」
大司祭の吐き捨てた言葉の雰囲気に、コンソール裏のふいごから黒い生き物がこそこそと離れ、壁に開いた鼠の穴に消えていく。
「おまけに……貴様らのような異国の邪神を導いてきた……姿を現せ邪神ども」
演奏席から振り向いた大司祭の顔が奥の扉前に立つ人影を睨んで言った。
「まさか、私達もこのような陣の奥までたどり着けるとは、少しも思ってはいませんでした」
童子と女神、シラの三人が闇の中から静かに姿を浮かびあがらせた。
「下品で醜い顔つきよ、まるで獣だ」
そう言った大司祭はおもむろに立ち上がり、カズラと呼ばれるマントを羽織った。
「この部屋が、あなたの心と同じで暗いからでしょ、明るいところで見てごらんなさい」
早池峰の女神は表情をゆるめ、絹の袖で自分の口元を軽く押さえた。
「おーふぉっふぉっ、異界の邪神めは、我が神の神聖な地を冒涜するか」
「お主の十字架は、今まで目にしていた物とは違うな、邪神を敬うのは、はたしてどちらであるのか……な」
シラの言う通り、祭壇に飾られた十字架の天地が逆になり、天使が飛び交う装飾の全てが奇怪な妖魔の姿となっていた。
大司祭の背後に黒い影がいくつも沸き立ち、次第に象の頭に大きな牙を持つ怪物の姿に変じた。
「我らの信ずる主は光が生まれた太古より変わらぬ、邪神ども、我がしもべの餌食にしてくれよう」
五体の怪物は、大司祭の声に反応し、身体を大きく震わせながら童子達を見下ろした。
「童子……いかに」
「時穴の誘因の印を見つけるのが先だ、こ奴らの世界では明らかに我らが不利、シラは後の物の怪をいなしながら女神の守りを。女神は印をすぐに見つけてくだされ」
「承知」
「あーあ、今度は高みの見物とはいかなさそうね、時はこの葉の上の朝露が消えるまで」
女神はそう言って露の付いた葉を一枚、足下に置いた。
「では、先に失礼つかまつる」
シラが、手持ちの弓の弦を大きく引き絞り巨獣の頭部に矢を射ると、見事狙いたがわず一匹の巨獣の眉間に矢が深々と刺さった。矢がまばゆい光を発すると、苦しむ巨獣の身体が汚泥となって崩れ落ちていった。
「シロ!フッタチとなれ!」
童子の声に小さな白猿は一声鳴き、童子の身の丈四倍ほどの凶暴な表情をした巨猿へと変貌した。間髪入れず童子と巨猿は大司祭の立つ演奏台めがけて床を力強く蹴り跳んだ。
妖しく笑う大司祭は後ろ手にオルガンの黒鍵を一つ押した。礼拝堂の床や壁が消え、血の色をした広々とした上下左右のない空間へと変わった。
「礼拝堂を壊すと、蠅の王の機嫌を損ねてしまうのでな、私の庭園へご招待させていただいた」
童子とシロが大司祭の身体をとらえる寸前、鉄の盾が間に立てられた。黒い馬に乗った首なしの騎士が体勢の崩れた童子に向かって剣を振り下ろした。
「ガアッ!」
その剣を受け止めたのはフッタチと化したシロであった。両の手のひらで押さえられた剣に戸惑う騎士の背後にまわった童子が自らの手を馬の脇腹に当てると、騎士の形をしていた鎧と馬がガラガラと音をたてて崩れた。
フッタチのシロは嬉しそうに声を上げた。
「シロ、油断するな、こ奴らは妖魔ではない、妖魔の振りをした泥人形、あの者、我らの力を試しておるのだ」
童子の言った通り、鎧や巨獣の倒れた場所には大量の泥が積まれている。
「ほほう、異国の邪神よ、地を這う獣を伴うゆえに感が鋭いな」
姿を消した大司祭の声が赤の空間にこだました。
「こういう閉じた空間を好む、うぬに言われたくないものよ」
童子らの戦いを横目に、突進してきた巨獣をかわしたシラは飛び上がり、巨獣の剛毛に包まれた盆のくぼへ手持ちの矢を突き立てた。早池峰の女神は、後方の場から動かず、時穴の誘因の印の気配を全ての神経を集中して探っている。
(娘の髪、黒い髪、野の花の匂い……娘の髪……黒い髪……野の花の匂い……野の……)
童子とフッタチのシロは、シラ以上の機敏さで次々とわき出る妖魔の姿をした物を潰していく。
「シラ!」
早池峰の女神は、閉じていた目を開け、芽の出かけた小さな小枝を何もない赤い空間に投げた。
「南無!」
シラは宙の小枝を狙い、白羽矢を射った。矢は光の残像を残し、赤い空間の一点ににぶい音をたてて刺さった。
瞬時に周囲を覆っていた赤い血の色が消え、再び悪趣味な彫刻や絵画に装飾された礼拝堂の室内へと変わっていく。シラはオルガンの林立する木製パイプの一本に自分の放った矢が垂直に突き立っているのを見て小さく安堵した。
その矢は表面に埋められた一本の髪の毛を両断するように深く食い込んでいる。髪の毛は以前燃え尽きた街で採取されたののの物であった。シラの矢の神々しい光の中に髪の毛が溶けはじめた。
「シロ!女神たちを!」
戦いの手を止めたシロは、大理石の床を急いで駆け、女神とシラを両脇に抱えると消えていく光に跳んだ。
「童子は!?」
女神がまだ大司祭と対峙している童子に叫んだが、彼は視線を大司祭の目から外さず、口元に軽く笑みを浮かべただけであった。
「童子!」
女神の悲痛な叫びを残し、光点は童子以外の神々を抱き込むように収縮し、しまいには何も跡を残さずに消えた。
騒ぎを聞きつけ礼拝堂に駆けつける城兵の夕立のような足音が迫ってくる。
「わが主は神聖なる地を汚したこの邪神めに天罰を与えたがっておる」
「いや、そのようなものを受けるつもりは毛ほどもございませぬ、うぬの言うよう邪神は邪神なりに行わせていただいたまで、我らを甘く見て泥人形で相手してくれたことがこちらには幸いであった」
涼しい顔をして童子は言葉を続けた。
「そして、我らがいた世界への時穴を閉じることも、再び開けるには、時もかかろう、己の力を過信する者は、時経れば己の力の無さに気付くことになる」
礼拝堂の扉を開けた廊下にあふれんばかりの兵士がまず目にしたのは、大量の泥の山であった。
「大司祭様、ご無事ですか!……うっ、異人だ!異人がいるぞ!」
はじめに飛び込んできた兵士は、たたずむ童子を前に一瞬躊躇したが、すぐに大声を上げて童子を捕らえるよう命令を下した。
「清き心信じる限り、人の闇に巣くいし魔は、いずれ滅びよう、うぬのような小者も含めてな、うぬのおろかな蠅の主にもよろしくお伝えくだされ、二度と数百年の時をこえ、我が地に足を踏み入れるなと」
童子の身体の輝きが増し、迫ってきた兵士達はあまりの眩しさに、目をつぶったまま、がむしゃらに童子のいる場所に突進した。
兵士の折り重なった身体の下や、その周囲からも童子の姿は既に消失していた。
「血だ!お前達の血を寄越せ!我が主の祭壇を臆病な貴様らの血で清めるのだ!」
大司祭の顔は今までにない恥辱にひきつり、怯える兵士を怒鳴る声は興奮で震えていた。




