7-6 舞台裏の後片付けと追憶の整理(6)
立て続け投稿です。
よろしくお願いいたします。
此処にいる孤児達と教師代わりであり世話係りのシスター達も同じだが…中には、戦争が起こる前に育てられない理由で親から臍の緒が着いた赤子の状態で、捨てられた子供が多かった。
――予想外出産。
言葉の通り、計画・予想できなかった出産の事だ。
別名『後戻り不可出産』とも云われている。
戦時前後問わず起こるのが、犯罪に巻き込まれ…無理矢理『産ませられた』女性が少なからず存在すること。
自分の興味本位や火遊びの関係後に妊娠が、分かった後…誰にも相談できずに考えて、気がつけば…もう中絶すら出来ない期間になってしまい『産む』選択をする未婚の母親が少なからず存在する。
しかし、遊びだったが…相手への脅迫材料として、お金目的で『産む』選択をする母親も少なからず存在する――…が、逆に脅した相手と一族による反撃によって丸め込まれ、生まれた赤子を孤児院に持ち込まれる事も多かった。
生まれてくる赤子に“情”は、ないかと云われれば…五分五分だ。
お腹を痛めて、産まれてきた我が子を見た時の感動は、計り知れない――…しかし、逆があるのだ。
産まれてきた我が子を見ても“何”も感じず…手放す母親もいれば、産まれてきて感動したものの育てていく中で「何か、違う」という『燃え尽き症候群』が発症してしまい理想を赤子に押し付けて“虐待”に走ってしまう母親が、少なからず存在するのだ。
理想と現実は、違うというのに…解ろうともしない。
――養母が、まだ戦争が起こる前に尼をしていた時に…そういった出産経験持ち家出同然で、出家した女性達から聞いた話しだ。
衝撃だが…物語でも小説のネタ帳でもなく、事実だ。
産む前と産んだ後も悩み続ける母親もいれば、産んで捨てた事を後悔している母親や「自分は、悪くない!相手が悪い!」という反省色を見せない身勝手な母親等々…千差万別だが、尼寺で保護をし、女性達を社会復帰へ出来るように自給自足の生活を送った。
途中、援助目的の見合いをさせるために家族が連れ戻しに着たりしたらしいが…警察や弁護士を立ちあわせに事情を説明し「本人次第」として、受理させた事もあったそうだ。
――その後の未婚の若い母親達は、事の重大さを思い知った。
何故なら尼様は、副業に産婆さんをしており手伝わされたからだ。
尼様は、まだ赤ちゃんだった自分達を含め多くの赤ちゃんの“命”を救い取ってきた。
尼様は、一人一人に当時の事を話した。
一人は、難産であったが無事に産まれた事から一人は、安産だったが…危ない状態に急変をしてしまった事、双子の兄弟だったのに片方だけしか助からなかった事を――…出来るだけ細かく話した。
少しでも当時、貴女を身篭っていた母親の気持ちと産んだ後の母親の気持ちを知ってほしかったからと云っていた。
――気持ちは、分かる。
分かるが…無駄にされているのが、現実だ。
その後の若い母親達の多くは“命”の素晴らしさを体感したが…やはり、まだまだ遊び足りないという理由で、寺を去った女性も居た。
しかし――。
子供同士の時間よりも子供と大人(両親)との時間の方が、当たり前に多い――…要は、大人の身勝手によって子供の“命”が、右往左往されるという事実を知ってほしい。
――尼様の養子になった“いのり(姉)”に尼様が発した言葉である。
その事を思い出しながら“いのり(姉)”は、冬霞殿を自分の養子にする事を決めた。
しかし、いきなりではなく…先に『仲良く』する事から始めた。
暫くの間の“いのり(姉)”は、養母と共に子供達の身の回りの世話と読み書きを含めたやり方を教える先生をする事になった。
読み書きや数字の計算、掃除や洗濯の仕方やボタン付けなどの裁縫…と、最低限の自分の身の回りを子供達に教えた。
休み時間は、花壇に水をあげたり…質問をされたら答えたり…朝・昼・夕ご飯の下ごしらえから調理、下ごしらえに使った包丁や皿の洗い方を教えた。




