7-4 舞台裏の後片付けと追憶の整理(4)
立て続け投稿です。
よろしくお願いいたします。
そんな“いのり(姉)”を見かね、倒れた“いのり(姉)”を看病をしてくれた一人の女性が「そんな元気じゃない貴女に逢っても妹さんは、喜ばないし、嬉しくないよ」と、叱咤した。
思わぬ出来事に驚きながら女性は「嫌な例え話をするけど、妹さんも…今の貴女のようになっているとしたら考えるんじゃない?元気な顔で、会いたいって…わたしだったら意地でも元気になってやるわ」と、軽い力説をされてしまった。
――その女性からの激励だった。
女性に言われて“いのり(姉)”は「そう、ですね…」と、受け答えた。
それから“いのり(姉)”は、看病・世話をしてくれた女性の手を借りて、なんとか復活した。
――しかし、まだ戦争が続いている。
一体、何時になったら終わるのか――…そんな不安と不満を無理矢理、隠すしかなかった。
気が張りまくっていると…誰かが、持ち込んだラジオから放送があった。
あんなに騒ぎ立てられていた戦争が…あっという間に終戦を迎えたのだった。
――あっけない。
誰かが、言ったが…気にしている場合でなかった。
しかし、まだ出歩けなかった。
地雷や空爆するために落とされた爆弾が不発弾があるかもしれないからだ――…先に安全を確保をしつつ、道端に転がっている瓦礫をどかしながら…亡くなった人達を一人一人を回収されていった。
回収されたご遺体は、奇跡的に爆発等に耐えた大きな建物に運ばれ…ご遺体を出来る限り綺麗にし、安置所として開放されていたが…ほとんど『合同埋葬』されてしまった。
3日間――。
この3日間が、限界であり限度だった。
今も当たり前に使っている“電気・水道・ガス”のライフラインが、まだ完全に敷かれていない時代であり、地域があったのが原因だった。
立ち込める死体からの腐臭を防ぐためでもあり、感染症に掛からないようにするための予防・対応策だった。
そして、情報が人づてからが多かったのも原因の一つである――…まだラジオなどの電化製品は、高級品であり軍事用の指示機械であったからだった。
代わりに流通したのが、人から人へ――…今で云う『伝言ゲーム』のような連絡事項が、一般的になっていた。
しかし、当然なのだろう…デメリットが発声してしまう。
何時の間にか、聞き間違いによる場所を曖昧にされたり…中には、金儲けをする犯罪が増えてしまったのだ。
まだ警察が機能していなかったため軍が、取りしまわれた結果――…嘘の情報に翻弄されながら…真の情報を仕入れぬままに遺体となってしまった家族・親族・友達の“再会”が間に合わなかった人達が、多く存在した。
その人達の中に“いのり(姉)”も存在した。
心の中で、妹は「死んでいない」か「死んでいる」かの葛藤をしながらも…現実を受け止めないといけなかったからだ。
しかし、見つからなかった。
内心では「ほっ」と、していたが「明日には」と、思うと…気が気でない日々を送り続けたが…見つからなかった。
しかしながら…悲しみに暮れている暇は、無い。
戦後の爪あとが残る中、生きている者達にとって『重要課題』が、待っていた――…衣食住等を含む生活の確保だ。
そして『仕事』だ。
――先に行われたのは、役割分担だ。
幸いにも武器として加工されていない調理器具と保存状態のいい野菜や調味料が見つかったため『今日一日を生きるために』と、行動を起こした。
女性・子供達は、食事や洗濯などの敵兵であった者を含めて怪我をした者達の世話を中心に…男性達は、仮住宅の設置や井戸から水圧でくみ上げる簡易な水道の設置を中心に行動した。




