ひといき 〜少女たちの日常〜
両手を横に伸ばすこともできないほど狭い部屋。部屋というよりは、縦に長い、直方体の箱だろうか。
ユリアの背中の側には出入り口となるカーテンがあって、正面には一面の鏡があった。自分の背丈よりもずっと大きな鏡を、ユリアは生まれて初めて見て、感動していた。
カリサ(風通しが良く、無地で地味な衣装)を脱ぎ、下着姿になる。目の前には、肌の大部分が露わとなった自分が映る。ちょっと恥ずかしかった。でも、初めての経験は楽しくて、内股になってみたり、前かがみになって肌着の首元を浮かしてみたり、大人っぽさを意識して微笑んでみたり。――まったく大人っぽくならなくて落ちこんでみたり。
隣の部屋――試着室からガサゴソと服を着る音が聞こえた。
(そうだ、お洋服に着替えないと)
右手側の壁にかけていた洋服を手に取り、体の前に掲げて鏡へ目を向ける。自分とは思えない自分が映り、なんだか顔が熱くなってきた。
「えへへ」
「どうしたの、ユリア」
隣からくぐもった声が聞こえた。
「ううん、なんでもないよ」
十一歳の少女ユリアは、初めて知る女の子の喜びに、胸を踊らせていた。
その少し前のこと。ちょうど、正午くらいだった。
服屋さんに行こう、とユリアは二つ結びの髪を揺らした。
「服屋さん?」
焚き火をぼーっと眺めていたシオリからは、疲労が垣間見えた。肩まで届かないほどの短い髪に洒落っ気はなかったが、ほっそりと整った顔をしている。
「うん。向こうにあったの、お洋服屋さん。行こうよ!」
カリサの生産元である彼女たちの生まれ故郷に、洋服屋と呼べるお店はなかった。ひとつだけ服屋はあったが、夏場になると伝統衣装であるカリサが店内のほとんどを占めてしまう。その「ほとんど」でない部分は、けっして年頃の女の子が好むようなものではなかった。
隣町に来て、初めてカラフルな服がたくさん飾ってあるのを見たユリアは、使命感にも近いものを感じたのだ。
シオリは静かに微笑む。
「そうだね。たまにはそういう息抜きもいいかも」
「じゃあ早速行こう!」
ユリアはシオリの手を掴み、引っ張る。
「ちょ、ちょっと!」
「早く早く!」
シオリを連れ去るようにして、ユリアは服屋へ駆け出した。
服屋の正面の一面の大部分はガラス製だった。店内が暗いのか、太陽が眩しいのか、反射して中の様子は見えづらい。近づいてみると、自分自身の影から店内を見渡すことができた。田舎育ちの彼女たちには、神秘的にさえ感じられた。
ガラスに手を当て、シオリは、ほのかに目を輝かせていた。
「すごい……これが都会のお洋服?」
石造り中心の建物が集まるこの町は、彼女たちの故郷と比較すれば、かなり都会的だった。
ユリアから見ると、シオリは大人っぽくて落ち着いている子だった。同世代の子たちの中では、おしゃれへの関心は薄そうに見える。
でも、服屋を見て上気しているその横顔は、年相応の女の子のもの。
「早速入ろっか!」
「うん。ちょっと緊張するね」
こっちこっち、とユリアはシオリを入り口へ案内する。
ごめんくださーい、と声を縮め、緊張した面持ちで、おそるおそる入店する。
途端、ふたりの少女の顔が、パアッと明るくなった。
黄色、緑、蒼色、桃色。並べられている洋服たちは、まるで、花畑のようだった。肉眼で見たそれが鮮やかな花だとすると、ガラス越しに見ていた色は、つぼみだろうか。そう思ってしまうと、自分たちが着ている薄茶色や淡黄色のカリサは、種に見えてしまう。
「すごいね」
「うん、空気が違う」
外の空気とも、故郷の服屋の空気とも違った。思わず背筋が伸びてしまうような、かわいらしいけど、少し、大人の空間。
興奮が、胸の下のあたりから膨らんできた。
目の前に並ぶ服は大人のものばかりで、ユリアたちには早かった。でも、かわいい服たちを見て、ちょっと触ってみて。
いつかこんなの着たい! と胸元の開いた服を体に当ててみたり。
いまの私たちには見えすぎるね、と笑いあったり。
そうしてゆっくりと店内を散策していると、子ども服売り場にたどり着いた。
大人のものよりは少々地味だけど、小ぶりな服たちには、また違ったかわいらしさがあった。
ユリアは弾けるように目を輝かせる。
「試着しようよ!」
シオリは恥ずかしがっていたが、「ユリアがコーディネートしてあげるから!」と勝手に服を選び、無理やり服を持たせて試着室に押しこんだ。
「ちょっと、は、恥ずかしいって」
「だいじょうぶ! ユリアもちょっぴり恥ずかしいから!」
「じゃあやんなきゃいいんじゃ」
「だめ! とにかく、やるの!」
シオリは否定的ながらも、足先はちゃっかり試着室へ向いていた。背伸びを恥ずかしがる、素直じゃない子だから、こうして背中を押してあげないと。
(なにより、シオリのおしゃれな格好が見たい!)
本人はまるで自覚がなさそうだが、彼女の顔立ちは整っている。「動きにくいから」「掴まれたくないから」と髪を短くしているが、きっと長いほうが似合う。伸ばして、彼女の母のように束ねて、うなじをあらわにすれば、きっと、男の子も女の子も目尻で追いかけてしまうほどキレイになるに違いない。
着替えを終え、ユリアが試着室から出たとき、シオリの試着室のカーテンはまだ閉まっていた。衣擦れの音が聞こえる。
「シオリー、まだー?」
「ちょ、ちょっと待ってて、もうすぐ終わるから」
裏返りそうな声だった。きっと、顔を赤く染めているのだろう。
ユリアは白いワンピースを着ていた。首元や袖に深い青色の線が入っている。腰のあたりには、同じ色の星や銀砂が細やかに散りばめられていた。スカートの裾を地面と見立てて、小さな動物たちが夜空を見上げているデザインだ。最後に、麦わら帽子をかぶり、夏らしいコーデの完成。
帽子を手で軽く押さえ、くるっとターンしてみる。スカートがふわっと舞う。少しだけ大人に近づいた気がし、にやけてしまう。
カーテンが静かに開いた。半分のところで止められ、シオリは真っ赤な顔だけを、ひょっこりと出した。
「恥ずかしい……」
「だいじょうぶ、ユリアしか見てないから」
ぐっ、と親指を立ててウインクしてみる。
「そうだけど……、なんでこんなスケスケなの選んだの」
「決まってるじゃん。ユリアの趣味!」
シオリはリスのように赤い頰を膨らませ、ユリアを睨む。少しして「はあ」とため息してうつむいた。前髪がだらんと垂れた。
「ほら、早く出てきなよ、恥ずかしがってないで。いいや、恥ずかしがりながら出てきなさい!」
「ユリア、なんかテンションがおかしい」
「こんなときだからこそ、だよ。せっかく旅をしてるんだから、ちょっとでも楽しまなきゃ。村に残ったジャネルのぶんまで、楽しまなきゃ」
ジャネルとは、彼女たちの友だちで、村一番のおしゃれ好きな女の子だった。ちょっと気が強くて、正義感がある、とってもいい子。ユリアの大好きな親友。
「そうだけど……」
残り半分のカーテンがゆっくり開かれる。川の温度を足先で確かめるような仕草で、シオリはおそるおそる試着室から降りてきた。
水色の、薄い生地の服だった。レースカーテンのように透けており、内側の白いキャミソールが見える。
白のショートパンツとピンクのベルトで、シンプルながらも年頃の女の子らしく彩られていた。以前この町に来たときに見かけ、ユリアが憧れていたコーディネートだった。
また、シオリは同級生の中では背が高いほうで、脚も長い。ショートパンツから生えるすらっとした脚に、ユリアは興奮した。
「良いよ! かわいい! かわいよシオリ!」
そのまま、ユリアはシオリの胸元に飛びつく。
「わわっ」
「やっぱりユリアの見込みは間違ってなかった! うん! 決めた! これからもずっと、シオリにかわいい格好させ続ける!」
「させ続けるって……」
シオリは顔を赤くしたまま、そっぽを向いた。長い首筋を見上げ、ユリアはドキッとする。
シオリがもぞもぞと言った。
「たまにならいいけど……、ずっとは遠慮しとくよ。なんか、落ち着かないから」
ユリアはシオリの背中に回した手をほどき、「まあね」と頷く。
「ユリアも、楽しいけど、ちょっとかゆい気がする」
えへへ、と笑う。
かわいい服は大好きだし、自分で着てみるのも楽しかった。だからこそ、その楽しみを『日常』ではなく『楽しみ』として置いておきたかった。
「やっぱりカリサが落ち着くね」
「そうだね」
カリサは地味だが、自分たちの村の伝統品として、ユリアは好きだった。生地が軽くて涼しく、締め付けの弱いそれは、やはり落ち着く。
また、ユリア以上に、シオリはカリサへの気持ちが強い。シオリの母が、村外用のカリサを編む仕事をしていたから。
このお店にもカリサあるかな、と探してみると、寝巻きコーナーにあった。自分たちの普段着がこの町ではそういう扱いだとは知っていたが、実際に目の当たりにすると、苦笑いするほかなかった。
シオリは畳まれたカリサを、赤子を抱くように手に取った。黙ってそれを見つめている。静かな横顔だった。
ここに並んでいるカリサは、シオリの母が作ったものなのかもしれない。シオリは、遠い母の温もりを、感じたいのかもしれない。
ユリアもシオリの母のことが好きだった。美人で、優しい、そよ風のような人。微笑まれると、こちらが嬉しくなってしまうような人。
しばらくして、シオリが顔を上げた。母親そっくりの微笑みが、ユリアに向けられる。
「今日の作業が終わったら、持って帰ろうか」
静かにユリアは頷く。息抜きの時間も終わりだ。
ふたりはその場で服を脱ぎ、新しいカリサに着替える。レジの奥へと引き返し、店を出た。
窓から服屋を出て、店の前へ出る。改めてガラス越しに店内を見ようとするが、ガラスに直接光が差しているため、反射してあまり見えない。布の庇が破れていて、光を防げていないからだ。
先ほどの焚き火はもう消えたのだろうか。空に煙は見えなかった。しかし、いつのまにかこちらが風下になっていて、煙たさがかすかに鼻についた。涼しい風だけど、煙のにおいと、すえたにおいのせいで、清涼感はない。
「作業、始めようか」
自らに言い聞かせるようにつぶやくシオリ。そのにおいの元になっているもののひとつへ、重たい足取りで近づいていく。このあたりはまだ作業をしていなかった。
カリサは新しいものに交換していたが、体は洗っていないため、シオリの首の後ろには赤い汚れが残ったままだった。本人は気づいているのだろうか。
シオリは、地面に伏せているものの前で立ち止まり、手を合わせた、その後、しゃがみ、それの腕を掴む。持ち上げるようにして胴を地面から離し、その隙間に入り込むようにして、背中へ担いだ。慣れた動作だった。
キレイなものを見た後だったからか、おなかの奥から酸っぱいものが、こみ上げてきた。お昼になにも食べてなければ、戻していたかもしれない。食欲がまるで湧かないことに、ユリアは感謝した。
(眺めている場合じゃない。木の枝を集めてこなくちゃ)
彼女は服屋の背後の森へ向かう。
歩きながらポケットに手を入れ、マッチ箱を取り出した。カタカタ、と何本かのマッチが箱の中を叩いた。今日いっぱいは持ちそうだ。
あと何回、この箱を使いきることになるのだろう。
想像しようとして、やめた。
「ゲット・アウェイ・ガールズ」
7/2(月)より連載開始予定。