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雨が降っている日はやる気が起きない、気圧の低い曇りの日もダメ。晴れて暑い日は絵の具がすぐ乾くから仕事にならない(というわけでもない)。適度に曇って、ゆったりした風の吹く春先か秋ぐらいの日、そんな日の、午後からゆっくりと起きてきて軽く遊んで目を覚ましてからしか、仕事はしない。なぜならそれだけで足りるからだ。その日描いた絵を売った金で、半年か一年寝て過ごす。
彼の絵は一枚でそんな価値がある。幼くしてその才能を認められ、有名な画家の弟子になり、その画家さえも数年で追い抜いた。気が付くと彼の名前は世界に大きく知れ渡り、その筋では知らない者は居ない程になった。少ないながらに友人も出来た。
「芸術家気質の人間は絡みづらいとよく言われるがそんなことはない。俺ほどの人間ならもはやそんなレベルじゃあない。友人の出来ない芸術家っていうのは、孤高を気取っているか、友人をつくる余裕さえない凡人止まりということだ。」
若い彼はそう言ったが、事実、そんな事はない。真に友人と言える友人はたった一人だけだった。二つ隣の街に住む三つ年上の画家で、少し気弱な好青年のような男だった。あとは彼の威を借る狐か、金と名声目当ての偽の友人ばかりだった。そのためか、彼は偽の友人と関わるとき、必ず虚無感を感じていた。その満たされぬ思いは、友人とともに解消していた、解消するしかなかった。
彼が二十歳になったときのことである。いつものように喫茶店でコーヒーを飲んでいた時、友人から思わぬことを告げられた。
「僕さぁ、父親になるんだ。」
あまりにも自然と告げられたその事実に、友人が結婚していたことさえ知らなかった彼は大きなショックを受けることになった。友人曰く、妻は音楽家で、幼い頃からの付き合い、病弱ながらいつも笑顔で支えてくれる彼女にいつの間にか惚れて、ということらしい。
「お前が父親ねぇ?本当になれるのかい?」
厭味ったらしくそういう言い方をするのは彼なりのポーカーフェイスのつもりらしい。もちろん、友人はそのことに気が付いているし、彼が心の中では祝ってくれていることにも気が付いていた。
「なれるかなぁ、どうだろう。」
「おいおい、今からそんなんじゃ不安になるぜ。父親はもっと大きく構えてねぇと。俺の父親なんて……」
そこから話したことはぼんやりとしか覚えていない。自分の父親がいかに偉大だったか、という話と、目指すべき父親は、とかいう話をしていたような気がする。
「せっかくだから僕と妻の絵を描いてくれないか?」
「それなりに曇った日が来るまで待ってもらわないとなぁ。」
意地悪くそう言う彼の顔は笑顔だった。案外にもその日はすぐに来て、太陽がさんさんと輝く絶好の日に、額に大粒の汗をかきながら、彼は余裕そうな顔をして一枚の絵を描き上げた。
それからというもの、彼は二人目の父親のように友人の妻を気遣った。友人が仕事で不在の時は友人の代わりに彼女を手伝った。ある日は怒られ、ある日は笑われながら。家事をしたのは初めてだった。それまでの彼は家政婦を呼んで全ての家事をさせていた。芸術家の才能故か、家事が上達するのはとても早かった。二ヶ月で家のほとんどの家事をこなすようになり、以後、全ての家事は彼が行うことになった。家事を奪われた友人の妻は最初こそ不服そうにしていたが、料理を教えるのが楽しいといっていつの間にかその不満もなくなっていた。
そうしてそれから五ヶ月が経ったある日、彼女は元気な女の子を産んだ。彼は誰よりも大きな声でその誕生を喜んだ。友人夫婦は彼に名付けを頼んだ。友人夫婦は彼に名付け”親”として、彼を三人目の親にしたいと思ったからだ。彼はそれまでの人生で一番多くの時間悩んだ。それまで感性と才能だけで生きてきた男が一ヶ月もの間悩みに悩み、とうとう付けた名前は”アルトイステ”だった。芸術家を三人親にもつ子なのだから芸術にちなんだ名前がいいと言ってその名に決めたのだという。友人夫婦はその名前をいたく気に入り、幼子は親しみを込めて”アルテ”と呼ばれるようになった。
その頃から、彼の絵はより価値のあるものになっていった。一枚で十年は暮らせる様な額にまでなった。一枚の絵により時間をかけるようになり、より微細に、より美しくなった。彼は一層人気を博し、それに伴って仕事の量も増えた。順風満帆とはまさにこのことだった。
そのせいで、彼は友人と会うことは少なくなっていった。頻繁に連絡は取り合うものの、顔を見せに行くことがままならなくなってしまったのだ。それでも、彼も友人も幸せだった。手紙や写真でのやり取りが、それぞれの存在を確かめさせてくれるから。彼らがこの空の下で今も生きていることが分かればそれだけで十分だった。
そして十二年が過ぎた。