春 秘すれば花
一命を取り留めた彰子は、病室で従兄の祐輔と再会する。
祐輔は文庫本を持ってきたり、水族館に連れ出したりと面倒を見る。
時が経つにつれ、彰子は祐輔に恋心を抱くようになる。
「小説を書こうと思ってるんだ。アキを主人公にした」
・縦書き ニ段組 A5サイズ
・27文字×21行
・文字サイズ9ポイント
・余白 上下11mm 16mm
に、設定していただくと本来の形でお読みになれます
人が空から降ってくる光景を初めて見た。
建物の上ではなく、何もない空中から。ゆっくりと落ちていく姿はまるで空中遊泳しているかのようだった。
後ろ向きに落ちて、風に煽られてたのか、やがて回転していき前を向く。その時だ。落下していく人と目が合った。
私だ。その人は私そのものだった。
落下する私は哀しそうな目をしていた。私はあの時、哀しかったのだろうか。そんなはずない。私は死にたかったのではない。ただ、透明になりたかっただけなんだ。死を否定したわけでも、生を肯定したわけでもない。なのに、
どうして私はあんなにも哀しい顔をするのか。
ふわり、ゆらりと、落下していく私が私と重なる。
そのまま私の体をすり抜け、地面へと衝突しそうになる。危ないと思いすぐさま左手を伸ばす。私の右手を掴もうとするけれど遅かった。私の体は地面へと沈んでいった。
※ ※
そこで目を覚ました。
病院のベッドは妙に固くて、入院してからの一週間は毎日のように同じ夢を見ている。トラウマとでも言うのか。
あの時。生きることや死ぬことを放棄したはずなのに、私の体は、私の魂は、卑しくもこの世界に執着している。
「あら、やっと起きたの」
母親がハンカチで手を拭きながらイスに座る。
「毎日来なくてもいいって言ってるのに。ヒマなの?」
「目を離すとあんた、いつ飛び降りるか分からないしさ」
「……ごめん」
今でこそこうして軽口を叩いてはいるけれど、最初は何もかもが酷い有様だった。母親の泣き顔も、父親の怒声も、私のズタボロになった姿も。本当に、酷い有様だった。
「ごめんね」
なんとなく、もう一度謝る。
イスに座る母親の手元を見ると、マフラーを編んでいた。
「お母さん。それ」
「うん。あんた寒がりだから」
「もう春だよ」
「そうやって油断していると風邪を引くのよ」
何気ない会話を交わせることに、なぜだか安心感を得る。
『生きているのが不思議なくらいだよ』
一命を取りとめ、意識を取り戻してから医師に言われた言葉だ。私にとっては死ななかったのが不思議なくらいだ。
「今日は祐輔くんも来るそうよ。会うのは七年振りかしら」
祐輔くん。とは確か、従兄の名前だ。私が小学校低学年の頃はよく遊んだもらった覚えがある。遠い昔の光景に映る人影が、本当に従兄であるかは定かでないけれど。
縁がないのならば存在しないのと一緒ではないか。
まるで透明だ。と、皮肉にも思った。
ぼんやりと外を眺めていると、窓に千羽鶴が掛けられていることに気付く。私が寝ている間に飾られたのだろうか。
「……これ」
「あぁ。渡会先生が来てね。クラスの子からだって」
母親の顔が陰る。同級生に対して、明里先生に対して、なんとも言い難い感情があるのだろう。私だってそうだ。それは怒りであったり、戸惑いであったり、哀しみだったり。
「さて、じゃあ私はそろそろ帰るよ」
荷物をまとめて立ち上がる。母親を部屋の外まで見送る。
「また明日も来るからね」
「うん。ありがと」
振り返り、千羽鶴を眺めていると鶴の何羽かは歪な形をしていたり、シワがよっているのが目に付く。鶴が折れない人はクラス単位でも少なくはないだろう。私も小学校を卒業して以来、折り紙に触れていない気がした。
その時だ。パサリ。と、千羽鶴を繋ぎ止めていたヒモの内の一つが切れた。色とりどりの鶴達が床中に散乱する。虹色の洪水という比喩が思い浮かんだ。
虹色の洪水の上に立ち、鶴の群を片付ける。ふと、極端に折り方の歪な鶴を見つけた。これなら紙をしわくちゃに丸めた方がまだ綺麗だろうと思うくらいに。
羽ばたきそうにもない鶴を拾い上げると、剝き出しとなった白い面に文字が書かれていることに気付く。
嫌な予感がした。
何が書かれているのかと気になり、紙を開く。
『死ね』
と、一言だけ乱雑に書き殴られていた。
『学校に来ないでください』
『気持ち悪い』
『馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿』
罵詈雑言の嵐に、私は別に痛くも痒くもなかった。
ただ、凝ったことをするなと冷静に思ったくらいである。
どんな悪口が連なっているのか、私は不快さよりも楽しい気持ちが肥大して、次々に折鶴をめくっていく。改めて私はまともではないのだろうと理解する。理解した上で、全うになろうという気持ちがないので救いようがない。
あ、
いくつか見ている時に、その言葉はあった。
『あきちゃんさ、ちょっとおかしいよ』
その特徴的な文字に覚えがある。誰の言葉なのか私に知らしめるように、その文字は全て反転して書かれてあった。
梓の得意な書き方だ。
私の頭の中に、いくつもの「もしも」が駆け巡る。
もしも、私に見つかるようにヒモを緩くしたとしたら。もしも、私が気付くように歪な鶴を混ぜたのだとしたら。
やっと、事の重大さを理解する。
心臓が鈍く絞まる。
過呼吸のように息が詰まった。
体が震える。
同級生達の顔が歪む。
涙が溢れていく感じがした。
私は、私は最低だ。
これ以上に私は残酷なことをしてきた。
その自覚はある。
あるのに。
これくらいのことで私は苦しくなる。
追い込まれる権利なんて私にはないのに。
あと一押しで、きっと私は泣いてしまうのだろう。
その時だった。
「アキ?」
ふと背後から私の名前を呼ばれて、思わず体が跳ねる。目を見開いて背後を確認すると、私よりほんの少しだけ背の高い男の子が立っていた。左手には紙袋を携えている。
「久しぶりだね。って、アキは覚えてないか」
男の子が目元を細めて小さく笑う。
「従兄の祐輔だよ。最後に会ったのはだいぶ前だからね」
柔和な感じがした。しかしなぜだろう。会って一分と経っていないのに、その雰囲気からは自己犠牲の上に成り立った優しさが感じ取られて、酷く嫌悪感が募った。
「どうしたの?」
私の泣きそうな顔と散らばった千羽鶴を見てたずねる。
「……なんでもないです」
「拾うの手伝うよ」
「いいです」
「よくないよ。千羽鶴が汚くなっちゃう」
「いいって言ってるでしょ!」
従兄の左手を払いのける。意図せず力を込めてしまっていたのか、従兄は体のバランスを一瞬だけ崩す。
なぜか左目を何回か開閉させていた。
「あ、本……」
従兄の視線に気付き、足下を見る。そこには本の規格や作者を問わず十冊以上が散乱した。はらだみずきの『赤いカンナではじまる』や乙一の『失はれる物語』を始め、大崎善生の『アジアンタムブルー』や綿矢りさの『勝手にふるえてろ』など、私の好みに添う本ばかりであった。
「叔母さんからアキは読書が好きって聞いたから」
「……ごめんなさい」
座り込んで文庫本を拾う。従兄も埃を払いのけながらそれを手伝った。今度はその行動を止めずに眺める。腕が特別に細いわけではないのに、血管が太く浮き出ていた。
「この本、あなたのなんですか?」
「うん。部屋から持ってきたんだ」
従兄とは本の趣味が合うのかもしれない。持ってきてくれた本は一度もう読んでしまったものばかりだけれど、頼めば私の好きそうな本を紹介してもらえるかもしれない。
従兄の手が止まっていることに気付き顔を上げる。私の顔をまじまじと眺めながら、何かを考えていた。
「……なんですか?」
「アキさ。なんで敬語なの?」
「え?」
なんでって。それは。だって、
「他人行儀だね。君は従妹なんだから」
従妹なんだから。その言葉がどこか引っかかった。
今までほとんど接点のなかった関係だ。関わりのない身内なら、それはもう他人と断言してもいい。
「だって……」
「まぁ、うん。その内、普通に話してよ」
その内なんてあるのだろうか。
「本。良かったら読んでね」
「……ありがとうございます」
紙袋を差し出されて受け取る。その際に手が一瞬だけ触れた。私の手が冷たいのか、従兄の手が温かいのか、その温度差に驚く。自分以外の体温に久し振りに触れた気がする。
「邪魔しちゃったね。今日はもう帰るよ」
「……はい」
従兄を見送る。手のひらの熱量がしばらく残った。
※ ※
退院するまでには一ヶ月ほどかかった。
骨折や傷などの身体面の治療は早く終わったけれど、精神面のケアには多くの時間が割かれた。そんなことをしなくても、私はもう二度と飛び降りなんてしない。
透明になんてなれないことを悟ってしまったからだ。
退院してから新しいマンションに引っ越すことになった。
母親は「元からあんたが進学する前に引っ越そうと思ってんだけどね。高校も家から近い方が良いだろうし」とは言っていたけれど、マンションの住民の目もあったのだろう。
引っ越しが一段落した後、私は前のマンションを訪れた。
改めて屋上を見据える。
30メートル位だろうか。地上から見ると高く感じた。
あの距離から飛び降りてよく死ななかったなと苦笑する。
それが不幸なことなのか幸せなことなのかは分からない。
けれど、これだけは理解できる。
私は一度でも、命を粗末に扱ってしまった。
未来を放棄した私はどこか生きる気力を失っている。
現実から飛び降りたあの時、私は確かに死んだのだと。
ふと、出口から小学校低学年くらいの男の子が出てきた。後ろを振り返り「おかーさーん」と急かす。母親は「そんなに急がなくったって、公園は逃げないわよ」とたしなめる。
その声に聞き覚えがあった。
子どもから母親へと視線を上に向ける。
「……あ」
驚くことに、その人物は明里先生であった。
私の声に明里先生も反応してこちらを見る。
「千歳さん」
「先生。なんで……」
私と子どもを交互に見ながら、言葉を詰まらせる。
「……少しだけ時間、あるかな?」
※ ※
マンションから数メートル離れた所に児童公園がある。
ベンチに腰を降ろして話すことになった。
小学生の頃は梓とよく遊んだ記憶がある。
「明里先生。子どもいたんですね」
「うん。透って名前なの」
その透くんは今、ボール遊びに夢中になっていた。
「既婚者なんて、言ってないですよね」
「言えるような雰囲気のクラスじゃなかったから」
その言葉に、一瞬だけ私の顔が曇る。皮肉を言えない明里先生の性格からして、他意はないだろうけれど。
「それに……」
今度は明里先生の表情が曇る。
「それに?」
「正確には既婚者ではないのよ」
「離婚したんですか?」
やや不躾だったかもしれない。
「透を産んでからしばらくしてね。交通事故だったの」
「……そう、ですか」
「不慮の事故って本当にあるんだなって、初めて思った」
なんと声をかけたらいいのか分からなくて口をつぐむ。
先生は私が命を無駄にしたこと、怒っていますか?
なんて、
何も言えないまま透くんを眺めていると、鼻歌を歌っていることに気付く。その歌にどこか聞き覚えがあった。
たーんたーんたーんたーたーたーたーん。
たーんたーんたーんたーたーたーたーん。
『きらきら星』だ。
上の階から聞こえてくるピアノの件を思い出す。
「明里先生。あのマンションに住んでたんですか?」
「うん。千歳さんが下の階と気付いたのは最近だけど」
「ピアノ……」
「あ、ごめんね。うるさかったかしら?」
「いえ。いつも同じ場所でつまづいてたんで」
あぁ。と、明里先生が自分の右手を見つめる。
「あの子ね。右手の薬指が欠損してるのよ」
右手の薬指の欠損。という言葉に小川洋子の『薬指の標本』を思い出す。主人公の「私」は海辺にある清涼飲料水の工場で、作業中の事故で薬指の先端部分を失う。
「透がもっと小さい頃、公園の遊具に指を挟んでね」
自分のことではないのに、想像すると痛みを感じる。
「私が透をちゃんと見てあげてなかったから」
「指のせいでピアノが途中で止まっちゃうんですね」
「他の指で補えるはずだから、心理的なものなのかも」
透くんの右手を眺める。ボール遊びに夢中で、激しく動く右手の中指はよく見えなかった。
「そういえばいつもピアノの音、聞こえますけど」
「小学校に行ってないのよ。指のことでいじめられて」
私が中学生の頃、明里先生はどのような心境だったのか。
「『みんなと違う』って、いっぱい言われたそうなの」
私もよく友人達から言われていた。人とは違うことに優越感を持っていたけれど、今にして思えば侮蔑の意味が込められていたのだろう。
「人とは違うって、そんなに悪いことなんでしょうか?」
明里先生は人差し指を唇に当て、考える仕草をする。
「千歳さんは金子みすずって知ってる?」
「……童謡詩人ですよね」
「うん。一番有名なのは『私と小鳥と鈴と』ね」
明里先生は一呼吸置いたあと、
「わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんなうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい」
金子みすずの詩をそらんじる先生を素直に感心した。
「すごい。全部覚えてるんだ……」
「千歳さん。人と違うことを怖がっては駄目よ」
私の心情を見透かすような微笑みにドキリとした。
明里先生が私の顔をじっと眺める。
「……どうかしたんですか?」
その時だ。明里先生が私の胸に体を預けて丸まった。
「あ、あの……」
「ごめん。しばらくこのままにさせて」
戸惑う。けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
気のせいだろうか。先生からすすり泣く声が聞こえる。
「あなたが生きていて、本当に良かった」
「……はい」
明里先生の涙に私まで涙腺がゆるんでしまいそうになる。
何もできないまま遠くを眺めていると、透くんの放ったボールが転がってきて、明里先生の足に当たる。それに気付いた明里先生が私の体から離れて呼吸を整える。
そして、
「こーら。強く蹴らないの!」
透くんを叱る明里先生の姿が、子どもを注意する母親そのもので驚く。記憶の中のおどおどした明里先生からは考えられなかった。普段から堂々としていればいいのに。
「おねーちゃん」
ボールを取りにきた透くんが私の側に立つ。
「なに?」
「一緒にあそぼ」
慣れないことに横目で先生の顔を確認する。先生はおかしそうに微笑んだあと「透と遊んであげて」とお願いした。
私の目を透くんがしっかりと見つめる。
差し出された左手を繋ぐ。
透くんの手のひらの熱量を感じる。
なぜだろうか。
自然と頬に涙が伝わってきた。
※ ※
高校生になり、私はアルバイトを始めることにした。
中学校での一連の事件以来、社会性を身に付けて、人と触れることに慣れようと思ったからである。
コンビニで働き始めてから数週間、やはり私は人と関わるのに慣れていないことを痛感させられた。
今日も愛想の悪い人や店の前に居座っている集団、雑誌を荒々しく扱う客。そんな人達ばかり見ていると気が滅入る。
どうしようもなく、どうしようもなくなってしまう。
「ちとせっち、具合悪そうだけど大丈夫ー?」
「べつに。大丈夫です」
隣でヒマそうにしている男性は、私の指導を担当してくれている梶さんだ。いかにも軽そうな風貌で、喋り方も歩き方も気だるそうだった。正直、あまり関わりたくない人だ。
「さっきのお客さん。私のレジが遅いって怒鳴りました」
「ちとせっちは頭が固いんだよな。心ん中で『お客様は疫病神様ですー』って馬鹿にしてればいいんだよ」
『お客様は神様です』と言うけれど、なるほど。神様は神様でも疫病神なのか。おかしくて笑みがこぼれる。
けれど、
「その呼び方、やめてくれませんか?」
「じゃあなんて呼べばいいのさ」
「普通に千歳さんでお願いします」
「わかってないなぁ。名前を呼ばれる大事さに」
どうでも良かった。人から名前を呼ばれると嬉しいとか、認めてもらえた気分になるとか、そんな気持ちが私には少しも理解できなかった。名前なんてただの記号だろう。
出入り口が開くと共に音が鳴る。
「いらっしゃいませ」
と、抑揚のない声で呟いた。
※ ※
従兄から水族館に行こうと誘われた。
最初こそは気乗りしなかったけれど、好きな作家の新刊を貸してくれるという言葉につい釣られてしまう。中学生の身分では気軽に何冊も本を買えないのだ。
水族館は従兄が住む街からも私が住む街からもほぼ中間の地点にあり、それほど大型ではない代わりに混むこともないので、魚をじっくりと鑑賞したい場合に重宝される。
そこで従兄と二度目の再会を果たした。
「まさか来てくれるとは思わなかった」
買ったばかりだというデジカメで魚を撮りながら呟く。
「それで、いつ本を貸してくれるんですか?」
「まぁ、最後まで付き合ってよ」
言われて口をつぐむ。何も本を借りたいだけではない。私だって水族館は好きだ。よく「生まれ変わるなら海月になりたい」と聞くけれど、私はその海月さえも包み込む水槽そのものになりたかった。私自身が透明な水槽になれたら、それはどれほど綺麗なことだろうか。
この水族館の大きな特徴は海底トンネルがあることだ。
15メートルも続く180度の視界で魚を観覧できる水槽は圧巻の一言であった。海底を仰ぐと海亀が優雅に泳いでいた。なかなか下から見る機会もないので新鮮に見えた。
飼育員がエサやりの為に海底トンネルを回遊する。ゆっくり、ゆっくりと沈んで私に近付いていく姿が、まるでいつか見た夢の続きと重なる。触れるように、手を伸ばす。
その時だ。
カシャ。と、写真を撮る音が聞こえてきた。
「……なんですか?」
「アキもそんな風に笑うんだなと思ってね」
私、気付かない間に笑っていたのか。妙に恥ずかしくなり不機嫌になる。この人にはデリカシーがないのかと憤る。
「……もう帰ります」
従兄に背を向けて急ぎ足で出口を目指す。
「ごめんね」とは謝ったものの、従兄はさして止める事はせずに私の少し後ろを付いてくる。この曖昧な距離感こそが、私と従兄の関係性を表す概算そのものだと思った。
※ ※
帰りのバスの中で私はむっとした表情になっていた。
従兄とは離れた席に座り、その後ろ姿を眺める。水族館には行きたかったものの、どうして付いてきてしまったのだろうか。後悔先に立たずとはこのことだった。
車道が整備中なのかバスが大きく揺れる。それに驚き、お母さんの腕の中であやされる赤ちゃんがひときわ大きな声で泣きじゃくる。
どうしてだろう。なぜかこのような時、自然と居心地の悪い気持ちになってしまう。誰かの咳払いする声や、どこか蔑むような視線。たまに聞こえる舌打ち。何もできない私。どうしようもなく、どうしようもなくなってしまう。
「泣くんだったら歩いて帰れよ」
どこからともなく罵声が聞こえる。お母さんは誰に言うでもなく「ごめんなさい。ごめんなさい」と謝る。そんなお母さんの顔色を見てか、赤ちゃんもさらに泣き喚く。
耳を塞いで、うずくまって、私も泣き喚きたかった。自分のことではないのに、どうしてこうも心が苦しくなるのだろうか。中学校にいた時は感じたことなんてなかったのに。
どうしようもなく、どうしようもなくなってしまう。
ふと、従兄が立ち上がるのが見えた。そのままお母さんの側まで歩いて、体を赤ちゃんの顔の位置まで落とす。
「ちゃんと見てるんだよ」
ポケットの中からヒモを取り出して、親指と人差し指にヒモをかける。あやとりだ。手前に回したり、つまんで半回転ひねったり、裏返しにして別の手にかけ直したりする。
朝顔だ。なぜだか作っている型がわかった。
赤ちゃんは興味を引いたのか、徐々に泣くのをやめてヒモに手を伸ばす。小さな指がヒモに触れた。朝顔が優しくほどける。赤ちゃんが笑う。従兄も微笑む。胸が苦しくなった。
……………………あ。
小さい頃のことを思い出す。あれは小学校一年生の時だったか、従兄と一緒にあやとりをしている光景だ。次々と形を変えていくヒモに私は驚き、何度も何度も次の形をせがむ。
記憶の中の私は、とても幸せそうに笑っていた。
そうか。私、確かに従兄と遊んでいたことがあるんだ。
あの頃の私が、従兄が、今の私と従兄に重なる。
従兄に見つからないように、そっとはにかんだ。
そっか。もしかしたら、私。
※ ※
今日は私の地元の市立図書館に連れ出された。
なんでも、よく行っている面白い遊びを私に教えてくれるそうだ。図書館で行えて、なおかつ面白い遊びとは何か。私は少し面倒くさい気持ちもあったけれど、好奇心の方がわずかに勝ってしまい、のこのこと付いてきた。
これでは水族館のときと何も変わっていない。
従兄が説明するには、お互いに相手が好きそうな本を選んで相手に読んでもらい、その本の中でまた、相手が好きそうな一文を教え合うという遊びだった。
読む本が私と似ているのなら私が好きな本を薦めても大丈夫だろう。伊藤たかみの『八月の路上に捨てる』を渡す。従兄は数分ほどぱらぱら読んだあと、一文を指差した。
『死んでしまいたいんじゃないよ。絶望してんじゃなくて、ただその人と一緒に消えたいって感じだもん。好きだって気持ちはもう突き抜けてて、ただそいつと、純度百パーセントになって消えてしまいたい感じ』
私はその言葉にあまり共感できない。
従兄も私の気持ちが分からないことの表れだった。
次は従兄が杉井光の『終わる世界のアルバム』を渡す。同じように数分ほど本を読んだあと、一文を指差す。
『何もかもが消えてしまうはずはない。想いは空気にだって土にだって、雨降りの中にだって含まれていて、そんなものの為だけにでも僕らは涙を流す。心が、枯れていなければ』
別にそんな風に思っているつもりはない。ただ願望はあったのかもしれない。願わくば消えてしまわぬように。叶うのならば涙を流せるように。心がまだ、枯渇しないように。
私がまだ、人としての尊厳がある内に。
※ ※
従兄とは数ヶ月に一度会うようになった。
図書館での遊びを繰り返したり、プラネタリウムに行ったり、食事に出掛けたり、映画を観に行ったりした。
図書館からの帰り道、車道側を歩いていると従兄が何も言わずに私を歩道側へと寄せる。思えば従兄は私の左側に立つことが多かった。従兄なりの立ち位置なのだろうか。
バスの件以来、私はよく従兄を観察するようになった。
野菜が嫌いなこと。左利きなこと。青が好きなこと。たまに黒縁の眼鏡を掛けること。ツバキを育てていること。困った時に頭を撫でること。様々なことがわかった。
郁さんという名前の彼女がいることも聞いた。その人の影響で写真を撮り始めたりギターも弾き始めたそうだ。彼女はアマチュアのバンドのボーカルを担当しているらしい。
けれど、なんだ。この釈然としない感じは。
ふと、前から中学生の集団が歩いてきた。
体を硬直させ、喉を震わし、中学生の集団が去っていくのをやり過ごす。頭の中で「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら。早く通り過ぎてくれと願う。永遠とも思われる一瞬も去り、やがて私の硬直は解かれた。その反動で力が抜ける。
中学生や集団は苦手だ。昔の記憶を思い出してしまう。
「大丈夫だよ。過去は過去だ」
私の様子を見兼ねてか。従兄が私の頭を撫でる。
手のひらの熱量がじんわりと広がる。
今なら、私の醜い過去も溶かせそうで口を開く。
「私、中学生の頃、いじめの加害者だったんです」
「アキが?」
「だから本当は、私が生きていてはいけないのに……」
従妹である私に突然こんなことを言われても困るだけだろう。けれど、一度決壊してしまったダムのように、溢れる思いはせき止めることができなかった。
「そんなことない。そんなことないよ」
撫でる手がより優しくなる。
「そうだ。アキ、最近面白い本がないって言ってたよね」
「はい」
「小説を書こうと思ってるんだ。アキを主人公にした」
従兄が無垢に笑う。
その時だ。やっと私は気付く。気付いたことを、認めた。
郁さんのことが釈然としないのも、従兄の言動がいちいち気になるのも、この人の前でご飯を食べるのが嫌なのも、
従兄が好きだからなのかもしれない。
しかし、どこかで認めるのを拒む。それは背徳感なのか倫理観なのかはわからないけれど、内緒にしたいと感じた。
秘密にすることこそが美徳なのだ。
何かの小説に書いてあった言葉を思い出す。
『秘すれば花』
と、心の中で呪文のように唱えた。
最後までお読みいただきありがとうございます
感想やご指摘などがありましたら宜しくお願い致します




