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繊細と落花  作者: 秋助
2/6

冬 空中遊泳。浮かぶような速度で、

中学三年生の彰子はいじめの主犯だった。

ある日、明里先生が病気で学校に来れなくなってしまう。

彰子は同級生から非難の目で見られ、

今までの仕返しをされ、飛び降り自殺を決意する。

「私、そうだよ。透明になりたかったんだ」


・縦書き ニ段組 A5サイズ

・27文字×21行

・文字サイズ9ポイント

・余白 上下11mm 16mm


に、設定していただくと本来の形でお読みになれます

『千歳さんはクラスのリーダー的存在である』

 中学二年生の時に、明里先生から評価された。

 確かに私はクラスの中心にいる。

 でもそれは人気や信頼があるからだとか、面倒見が良いからだとか、そういった肯定的な理由からではない。

 私は俗に言うスクールカーストの上位にいた。ともすれば一番上に君臨しているかもしれない。そういった意味では間違っていなかった。

 ではなぜ、明里先生はそう評価したのか。

 母校の教育実習を経て、正式に担任となった明里先生は認めたくないのだ。担任として初めて受け持つクラスで、

 いじめが行われているなんて。

 明里先生は二十代前半と、他の教師達よりも一回り若いせいか、生徒からは甘く見られていた。おどおどとした話し方や振る舞いも拍車をかけているのかもしれない。

 あかりちゃんと生徒からは親しみを込めて呼ばれていた。同時に、先生として見られていない表れでもあるけれど。

 授業放棄なんて当たり前のできごとで、酷い時には先生に対する嫌がらせも何度か行ってきた。出席確認で返事をしない。机の中に昆虫の玩具を紛れ込ませる。すれ違いさまにわざと強くぶつかる。酷く子どもじみたものだ。

 私達からしてみたら些細なイダズラなのかもしれない。でも先生には酷いストレスになったのだろう。二学期のなかばから少しずつ休暇を取る日が多くなっていった。

 私達のクラスはとっくに崩壊している。でもそのことについてどうとも思わなかった。私はおかしいのだろうか。

 昔から冷めた性格ではあったのかもしれない。

 要領が良いとか達観しているとか、変に大人だったのだ。

 幼馴染である梓が他の人より愚鈍であることも、私の性格をより捻じ曲げた一つの要因かもしれない。

 折り紙で鶴を折らせてもシワがよったり破れが生じる。何もない場所でよく転ぶ。いくら復習をしても成績が上がらない。梓のそんな愚図なところが何よりも疎ましかった。

 それと同時に優越感もあった。

 梓と一緒にいると私は、人よりも優位に立てている。私よりも下の人間が存在する。そう安心することができた。

『人は誰かと比べたがる病気を持っている』

 誰の言葉だったか。実に的を射ていた。

 梓はクラスに存在するいずれのグループにも所属できていなく、どこからもやっかみ扱いされて孤立していた。

 何か明確なできごとがあって仲間はずれの対象にされたわけではない。ただ、なんとなく、標的になっただけだ。

 理不尽なことなんて、中学校という狭い世界の中では飽きるほどあった。

 あまり仲の良くない同級生達は「あれはいじめだ」と事態を荒立てようとした。では仮にその『いじめ』があったとして、それを傍観しているだけのあなた達はなんだ。

 関わらないでいることは、免罪符になんてならない。

 空気が淀む。

 部屋の換気をする為に窓を開け、ついでにベランダへと出る。ちょうど真上の階からピアノの音が聞こえてきた。そっと耳を澄ませる。

 ドードーソーソーラーラー、

 ドードーソーソーラーラー、

 聞こえてきた曲は『きらきら星』であった。

 しばらく聴いていると、ピアノの音はいつも同じ場所で途切れていた。歌にすると「きーらーきーらーひーかー」までで、最後の「る」がどうしても弾けていない。指をラからソの位置に戻すだけである。そんなに難しいことだろうか。

 ピアノの音はいつも、星が光る前に消えてしまった。

 手すりに体を突っ伏して、どれほどだろうか。長らくそうしていると人の行き交う様子がさざ波のように見えた。

 寄せて、引いて。流れて、消えて。

 その一人一人に物語があるのだろう。私はどうだ。

 辻村深月の『凍りのくじら』に登場する主人公は、藤子・F・不二雄のSF(少し・不思議)になぞらえ、人の個性を当てはめている。主人公は自身のことを少し・不在と捉えている。それを真似るのならば私の個性は少し・不穏であった。

 梓は少し・不十分になるだろう。私達が幼少の頃、なぜかあやとりが二人の間だけで流行っていた時があった。私が手本を見せる中、梓は何度やっても途中でヒモがほどけてしまう。その時は梓に対してまだ親愛を持って接していたのに。いつから疎ましくなってしまったのか。

 ただ一つ、梓の特技に対して興味を示したものがある。

 反転文字がすごく得意なのだ。日本語に限らず、アルファベットや数字をすぐさま反転して書くことができる。

 ふと、キンモクセイのような甘い匂いが漂ってきた。屋上庭園で住民達が育てているヒイラギの匂いだ。

 他にもアネモネやオンシジウム、カランコエやプリムラといった様々な花が住民達によって植えられている。その為、屋上は常時開放となっているけれど私は興味がなかった。

 空が乾いていくのを感じる。凍てつく風が頬を刺す。

 もうすぐ雪が降るのかもしれない。

 明日は始業式だ。積もらないように願った。

「お昼ご飯できたわよー」

 と、母親から声がかかる。

「はーい」と生返事をして体を起こす。

 ドードーソーソーラーラー、

 ドードーソーソーラーラー、

 相変わらず光れない『きらきら星』と、ヒイラギの匂いを背に受けながら部屋を出た。


     ※            ※


 中学三年生の始業式が終わり、教室に戻ってきた。

 そこでクラスの担任が明里先生になると判明した。

 私を見つけた時の明里先生の曇る顔がありありと目に浮かぶ。想像の中の明里先生とは対照的に、私の表情がゆるむのを頬の筋肉を通して感じた。

 幸いにも二年生の時に同じグループだった友人達が全員いるし、梓も一緒のクラスになった。

 これで今年もまた教室で好き勝手に振る舞える。

 まずは先制攻撃だ。このクラスで逆らってはいけないのは誰なのか。思い知らせることにする。

「ねぇ、この席ってさっき誰が座ってたっけ?」

 わざとらしく大きな声で友人に問いかける。

 新しいクラスではまだ席が決まっていない。最初は適当に座っていたけれど、戻ってきた時には席に名前が書かれたシールが貼られていてその通りに座ることになっていた。

「さぁ、梓とかじゃない?」

 突然、名前を呼ばれて梓が体全体を身震いさせる。どうやら被虐心が身に付いてしまっているようだ。

「うぇえ。汚い。どうしよ私、手ぇ洗ってこようかな……」

 私の言葉に釣られて友人達が笑う。

 おどけて教室を出て行こうとする。勿論、本当に出て行くつもりはない。あくまでもフリだ。私の一挙一動に友人達が笑い、誰かが傷付く。私はその優越感がたまらなかった。

 それと同時にだ。教室のドアが開き、明里先生と鉢合わせする。私のにへらとした顔は一瞬にして固い表情に変わる。それを先生も察してか、口を強く横に結んだ。

「ホームルームを始めるので席に着いてください」

「……はい」

 私はバツが悪くなり席に戻る。その際に近くにいた男子生徒の机を足で小突いた。イスに座り、右隣の友人の「恥ずかしい奴」という揶揄を「うるさい」と一蹴する。

「今日からこのクラスを受け持ちます。お願いします」

 わざとらしい笑顔と、何度も復習してきたのが透けて見える挨拶が続き、嫌気が差してくる。このままではあれに気付かないままホームルームを終えてしまうだろう。なので、

「先生、教壇の中に私のペンケースありますか?」

「ペンケース?」

「はい。ふざけて入れたまま忘れてしまって」

 突拍子もない発言に訝しむ。警戒しているみたいだ。

 身を屈めて机の中を覗き込む。

 すると、

 明里先生が声にもならない声で小さくえづいた。身を引いて倒れ込んだ際に足で机を蹴飛ばし、机の中に仕掛けた大量のゴキブリの玩具が明里先生の回りに散乱する。自分で仕掛けて置きながらその光景には気持ちの悪さを感じた。

「ごめんなさい先生。私の机の中にありました」

 ひらひらとペンケースを掲げる。

 明里先生はしばらく呆然とした後、ゴキブリの玩具を避けながら、黒板の縁を掴んでゆっくりと起き上がる。

「……これ。千歳さんがやったの?」

「いいえ。先生を嫌いな人がやったんじゃないですか?」

 教室内の至る箇所からせせら笑う声が聞こえた。

 明里先生は今にも泣きそうに体を小刻みに震わせている。

「このことは他の先生方にも報告します」

 強がりにしか聞こえなかった。職員会議にでもなんでも勝手にすればいい。明里先生にその勇気があればの話だけど。

 問題を起こしたくないことなんて目に見えていた。


     ※            ※


 始業式が終わって外に出ると雪が降っていた。

「あきちゃん」

 名前を呼ばれて振り向く。梓だ。

「……なに?」

 意識したわけではないのに口調が強くなってしまう。

「あの、……今日、一緒に帰れないかな?」

「あんたと? なんで?」

「いや、昔は一緒に帰ってたなぁと思って」

 小学校までだろうか。家が近所なので、毎日のように一緒に帰っていた。好きな男の子の話。昨日見たテレビの話。流行っている服の話。いくらでも話題は尽きなかった。

「……今日は一人で帰りたい気分だから」

「そっか。ごめんね……」

 数秒でも早く梓の前から消え去りたくて振り向く。

「あきちゃんはさ、私のこと、嫌い?」

 苦々しい言葉を背に受ける。

 嫌い。嫌いなのか。私は、梓のことが嫌いなのだろうか。

 なんで。どうして。いつからだろう。こんな、

 ぎこちない関係になってしまったのは。

「嫌いだよ。あんたなんて」

 声が少し震える。こんな不細工な顔、見せられなかった。


     ※            ※


 学校とマンションを繋ぐ河川敷を歩いていると、ギターで弾き語りをしている女性を見かけて足を止める。歌に興味があったわけではない。その風貌に唖然としたのだ。

 髪は青が少し混じった紫色で、遠目でも分かるくらい大きいピアスを耳に何個も付けて、服装もパンク ファッションと言うのだろうか。全身を黒い服で固めていた。

 病弱に映るほどの白い肌が、対比として余計に目を引く。

 しかしどうだろうか。

 女性の声はとてもか細く透き通っていた。泣きそうに震えながらも力強い声は、一瞬でも私の心を揺らした。

 女性が振り返り、視線が合う。

 しまった。と、思った。

 私に気付くと女性は手招きをして誘う。何かを話しているようだけど、声は私にまで届かなかった。

あんな得体の知れない人に付き合っている時間はない。

 視線を外して足取りを早める。


     ※            ※


 家に着く寸前、母親がパートでいないことを思い出したので、ファーストフード店で昼食を取ることにした。

 ハンバーガーとポテトを頼み二階に席を見つける。

 手提げカバンから文庫本を取り出す。米沢穂信の『春季限定いちごタルト事件』だ。押し花の栞が挟んであるページをめくる。少しずつ咀嚼しながら、少しずつ読み進める。

 平日の昼間だというのに、窓から覗く人の波が激流のように思えた。その様子をどこか冷めた様子でうかがう。

 寄せて、引いて。流れて、消えて。

 その時である。かん高い女性達の声が聞こえてきた。

 不機嫌になりながらそちらに目をくれる。

 …………あ、

 私のグループの友人達だ。

 しかしそれだけではない。何よりも私が驚いたのは、梓が友人達と一緒にいたことだ。窮屈そうにしていたのでむりやり連れてこられたのだろうか。

「なんで……」

 なぜだか見つかってはいけないと感じて身を屈める。

 幸いにも向こうは話に夢中のようで私に気付いていない。息を殺して、気配を消すことに集中する。やがて友人達が私に背を向けて席に座る。助かったと安心して顔を上げる。

 その瞬間、

「え」

 梓と一瞬だけ目が合った気がした。しかしすぐにまた友人達と会話をしているので気のせいみたいだ。

深くため息を吐いて、逃げ込むようにトイレへと向かう。

 個室に入り携帯を取り出す。LINEを開いて梓に『今どこ?』と送る。間があった後に『もう家にいるけど』と返ってきた。『そう』『どうしたの?』『なんでもない』なんて。どうしたのじゃない。なんでもないわけあるか。

 友人達にもメッセージを送ろうとしてやめた。このタイミングで送ったら一緒にいる現場を見たと言っているようなものだ。それだけは絶対に避けたかった。

 友人達は梓を引き連れて何をするつもりなのだろうか。

 いくつかの事柄を考える。

 私達のグループへの引き抜き。食事の勘定をさせる。友人達の単なる暇潰し。他にも様々な憶測が飛び交う。しかしそのどれもが今一つ確信までに至らなかった。

 私を除いてあのメンバーが集まる。

 考えたくないけれど、腑に落ちる一番の理由が浮かぶ。

 もし、

 もしそれが本当だとしたら。

 思考の先を思い浮かべて、必死に沈めようとする。

 ドアの開く音と共に友人達の笑い声が聞こえた。

 声が洗面台の前付近で止まる。

 用を足さずに集団で居座る風景は学校以外でも同じだ。

「つーか梓、さっきのあきのLINEなんなの?」

「……わかんない」

 やはり友人達にも見られていたのか。

「でも梓がウチらのグループに来てくれて良かったよ」

「そうそう。これでやっとあきを追い出せるね」

 あまりにも唐突なことに、言葉の意味を理解するのに時間がかかる。梓が私達のグループに? 私を追い出す?

 一体、何がどうなっているんだ。

「あきをクラスで完全に孤立させないと意味がないもん」

「梓もこれで良かったと思うでしょ?」

「私は……」

 梓は、梓は? どういうつもりなんだ。

 しばらく間が続く。

「このままじゃ良くないと思ってる」 

 喉がひきつった。そうだ。梓が私を裏切るはずがない。

 友人達がむりやり話を進めているだけだ。

「あんた。あきにどんな酷いことされたと思ってんのよ?」

「そうだよ。梓はそれを許せんの?」

「許せないよ」

「だったらなんで?」

「私はあきちゃんが死にたいと思うくらいのことをしたい」

 ………………あ。

 もし先ほど目が合った時に梓が私の存在に気付いたのだとしたら。その上で友人達をトイレに誘ったのだとしたら。

 そして、この話を私に聞かせようとしたのなら。

「うーわ。思ったよりエグいね。梓は」

 何を動揺しているんだ、私は。

 意地の悪い嫌がらせを梓にしてきたことは自覚している。

 梓が私を恨むのは当然のはずなのに。

 なのに、

 どうして心が受け付けないのだろうか。

 気分が次第に悪くなっていく。

「あ、じゃあさ」

 その時だ。

 扉の開く音と共に声が途切れる。違う客が来たのだろう。

「そろそろ戻ろっか」

 少し冷めた声が離れていく。

『あ、じゃあさ』

 その言葉の続きは何だったのだろうか。

 聞けなかったことに若干の安堵を覚える。

 全身の力が抜けて床に這いつくばってしまう。

 便器に顔を伏せる。独特のすえた臭いと惨めさが私の全てを被い、吐き気をもよおす。醜い本音も、汚い私自身も、何もかもを一緒に吐き出してしまいたかった。

 薄っぺらい尊厳が胃の逆流を食い止めようとする。喉に人差し指を突っ込んでむりやり吐こうとした。先ほどまで食べていたハンバーガーとポテトが喉元まで戻ってきた。


     ※            ※


 学校へと向かう足取りが重かった。

 梓が友人達と一緒にいる場面を見てしまってから、梓の私に対する本音を聞いてしまってから、私はどうにも調子がおかしくなってしまい一週間ほど学校を休んでしまった。

 家にいる間も様々な猜疑心が生まれては浸食した。

 私はなぜ一週間も休んでいると思われているのか。邪推されていないか。教室に戻ったとき、私の居場所はあるのか。

 いつもより早く家を出たはずなのに、学校へ着く頃にはホームルームが始まる間際になっていた。

 表情が強張っていくのを感じられる。教室の前で立ち尽くし、何度か深呼吸する。繊細さを吸って、淀みを吐く。

 大丈夫、大丈夫。私は、大丈夫なはずだ。

 手をかけて扉を開く。一段と強くドアの軋む音がした。

 同級生達が一斉に私の方を振り向く。

 無言が続いた。重苦しい雰囲気が教室を支配する。気のせいか私を見てにやにや笑っているようにも思えた。

「……おはよう」

 いつもは勝手に飛び交う挨拶が今日はまばらに聞こえた。

 同級生達の対応に素っ気ないものを感じる。

 席に座って辺りを見回す。梓の席に本人が見当たらなかった。今度はグループの友人達がいる方を見る。その中心に梓を捉えた。私のいない一週間の中で何があったのか。

 しばらく眺めていると視線に気付いたのか、梓が私の方を振り向く。釣られて友人達も私を見る。視線の威圧感というものに覚えがあった。私達が梓を蔑んで見る時の目だ。

 梓が私に何かを話しかけているけれど、同級生達の喧噪に紛れて言葉は届かなかった。

 河川敷で遭遇したあの人の時と同じだ。

 視線を戻してカバンから文庫本を取り出す。

 柴村仁の『プシュケの涙』だ。しかし、内容が頭に入らない。見られている。噂されている。被害妄想だと思い込む。

「あんたさ、これから大変なことになるよ」

 どこからともなく声が聞こえた気がして顔を上げる。

 周囲を見回す。

 全員が私のことを見ているような気がした。

 にやにや、にやにやしている。

 あちらこちらで交わされる会話が雑音めいて聞こえる。

 なんだ。私が何をしたというのだ。

 大丈夫、大丈夫。大丈夫、大丈夫。言い聞かせる。

 始業の鐘が鳴り、ドアが開く。が、そこに現れたのは教頭先生であった。教室中がざわめく。これまでも明里先生が欠勤することは何度かあった。しかしその場合は他の先生が代わりにホームルームを始める。

 今はどうだ。教頭先生が険しい表情を浮かべていた。

「一限目は自習にします。それと千歳さん」

 突然、私の名前を呼ばれて肩を震わす。

「……はい」

「大したことじゃないけど、ちょっと来てくれるかな」

「……分かりました」

 おずおずと立ち上がり教頭先生の背に付いていく。

 教室を離れる瞬間、

 あざ笑う梓達の表情が目に焼き付いた。


     ※            ※


 通されたのは進路指導室だった。

『あんたさ、これから大変なことになるよ』

 と、誰かの言葉を思い出す。大変なこととは、このことなのだろうか。

「少し、確認したいことがあるんだ」

「……なんでしょうか?」

「ある生徒から『いじめを受けている』と聞いてね」

 恐らく梓達のことなのだろう。いじめ? 冗談じゃない。

 私達のしていることはいじめなんかではない。

「それを教頭先生は鵜呑みにしたんですか?」

 鵜呑み。の部分を強調して敵意を剥き出しにする。

 教頭先生が一瞬だけ苦い顔をした。

「だから、事実かどうか確かめたいんだ。それに」

「……それに?」

「渡会先生の不調にも君が関わっているそうじゃないか」

 突然、明里先生の名前が出てどきりとした。

 私はその苦い顔を睨みながら考える。

 数人の密告程度で学校は動くだろうか。迅速な対応と言えば聞こえは良いのかもしれない。けれど、それにしては少し疑ってかかり過ぎだろう。それも生徒の前で私を晒し者にして。よほどの根拠がないとそんな横暴はできないはずだ。

 では、根拠とは何か。それは、

「それは、明里先生本人に聞いたんですか?」

「……そうだ」

「生徒の誰かから『密告』があったからですか?」

 わざと当たりの強い言葉を選ぶ。

 教頭先生も苦い顔から怒りが混じった顔つきとなる。

「渡会先生は一週間ほど前から学校に来ていないんだ」

「だからなんです?」

「鬱病だそうだ。原因を尋ねてみたら、ね」

 心臓を素手で握り潰されているような痛みを覚える。こうなる覚悟なんてなかった。ただ漠然と、私達のやってきたことはうやむやにされると思っていた。しかしどうだ。実際はこうして、無情にも現実を突きつけるではないか。

 私は明里先生を呪った。

 生徒を裏切った教育者失格の人間だと。

「…………それ」

「うん?」

「それ、もし本当に私が犯人なら、私はどうなるんです?」

 その一言がすでに証拠そのものだ。

 教頭先生は天井をしばらく仰いだあと、ため息を吐く。

 何もかも、全てが終わってしまったと感じた。

「千歳さん。君、今日はもう帰りなさい」


     ※            ※


 心身共に疲弊し切りながらも教室に戻る。

 あんなことがあった後だ。教室になんて戻りたくはなかった。けれど、荷物を取りに行く為に戻る。そう。荷物を取りに戻るだけだ。何の問題も心配もない。だから、

 大丈夫、大丈夫。私は、大丈夫なはずだ。

 控えめに扉を開く。教室の中は始業前となんら変わりのない騒々しさを伴っていた。動物園にでも紛れ込んだのかと錯覚する。こんな崩壊した教室に、一体『誰が』したのか。

 ふと、頭に何かが当たった。地面に落ちて転がっていったそれを確認すると漫画雑誌であった。眉間に少しかすったのか、手で触れるとわずかに血が滲んでいた。

「すまん! ……あ」

 一人の男子生徒が私に気付き、渋い顔になる。

 周囲の生徒も私を捉えて互いに目を合わせた。気まずそうな顔。居心地の悪い顔。うっすら笑みを浮かべた顔。軽蔑した顔。様々な表情はあれど、次第に視線は黒板に集中した。

『千歳彰子は犯罪者』

 白い文字で大きく書き殴られていた。

 ここで反応したらこいつらの思う壷だ。私は冷静を装う。けれど、明里先生が鬱病を苦に自殺でもしてしまったら、それこそ私は本当に『犯罪者』へと成り下がってしまう。

さっさとカバンを取りに席へ向かうと、机の上には花瓶が置かれていた。なんとも低俗な嫌がらせだろうか。

 カバンを背負ってそそくさと教室を出る。

「もう学校に来なくていいよ」

 誰の声だろう。

 私には声の判別ができなくなっていた。


     ※            ※


 学校を出ると天候は吹雪に変わろうとしていた。

雪を踏む感覚もさくさくとした柔らかいものではなく、ズブズブと底なし沼に引きずり込まれるかのようであった。一歩一歩が酷く重い。

 不透明な景色とおぼつかない歩みが私の将来と重なる。

 風邪でも引いたのだろうか。体に少し熱を纏っていた。

 ふらふらと蛇行するように歩く。

 正面から走ってきた車とすれ違う。

 汚い水飛沫が私の腰にまでかかり、惨めな気持ちになる。

『私はあきちゃんが死にたいと思うくらいのことをしたい』

 梓の心を思い出す。

『鬱病だそうだ。原因を尋ねてみたら、ね』

 教頭先生の言葉を思い出す。

『もう学校に来なくていいよ』

 誰かの声を思い出す。

 私は一体、何をやっているのだろうか。

 意識が朦朧とする。

 その場でしゃがみ込み、うずくまる。

 行き交う人達が私のことを見ているような気がした。

 にやにや、にやにやしている。

 あちらこちらで交わされる会話が雑音めいて聞こえる。

 なんだ。私が何をしたというのだ。

 大丈夫、大丈夫。大丈夫、大丈夫。言い聞かせる。

 そのまま仰向けに寝転がり空を仰ぐ。

 雪が体を覆って、白い絨毯の中に私を隠すようだった。

 埋もれて、消えて、失って。

 私の全てが透明になれたらいいのに。

 あぁ、そうだ。

 私、そうだよ。透明になりたかったんだ。

 私と関わった様々な人に、私に関する様々なことを忘れてほしかった。こんな醜い私を、思い出さないでほしいんだ。

 その為にはどうするべきか。なんとなく想像してみる。

 そして、

 魂の喪失。それしかないと感じた。


     ※            ※


 どうするべきかはっきりしてからは早かった。

 一段、一段。マンションの階段を上る。まるで処刑台を進む断罪人のようだ。地上の、私達の住む世界が遠くなり、次第に鳥達の空域に到達する。寒さがより一層増した。

 やがて屋上のドアの前まで辿り着く。ドアノブを少しだけ回す。鍵は掛かっていないみたいだ。いつでも誰でも楽しめる屋上庭園を売りにするのはいいけれど、こんなにも簡単に入れてしまうのはどうなのか。その恩恵を受けて外に出る。

 凍てつくほどの冷たい風が私の体を刺す。足に力を入れていないと吹き飛ばされるほどの強風だった。

 手すりから身を乗り出して、遥か下の地面を眺める。

 管理人が大事に育てている花壇が見えた。

 控えめなライトに照らされて、ヒイラギが妖艶に映し出された。目を細めてじっと見ていると吸い込まれそうになる。

 顔を上げると夕陽が燦然と輝いていた。

 感傷的な気持ちが私の心を侵食しようとする。

 別に死にたいわけではなかった。だからと言って生きていたいわけでもない。それはやはり、透明だ。誰からも気付かれず、ひっそりと物語の隅で身を潜めていたい。

 その時だ。

 横殴りの風が私の軽い魂ごとさらう。

 ふわり。と、体から重力が開放されていく感覚に陥る。

 今だ。

 今、この瞬間しかない。

 私の魂が、透明に輝くこの時しか。

 地面を強く蹴って、ごく自然に空中へと放り出される。

 …………………………あ、

 世界が反転する。

 目指した空が、遠くなる。蛹になったみたいだ。

 スローモーション。

 浮かぶような速度で、空中遊泳をしている気分になる。

 地面が目の前まで迫った。

 私の命が透明になる瞬間、

 花壇のヒイラギが煌くのを見た。

最後までお読みいただきありがとうございます

感想やご指摘などがありましたら宜しくお願い致します

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