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百人殺しのサラマンド  作者: なりた
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 以前と同様、市場は大変な混みようだった。

 サラマンドは、前回は初めてでその熱気に飲まれてしまったが、今回は少し余裕をもって周りの様子を眺めることができた。

 そうして市場を歩いていると、やけに口論する人々が多いことに気がついた。思い起こしてみると、前来たときもそうだったように感じた。

「あの……、あちこちで言い合いをしている者が多く感じるのですが、あれは値段交渉なのでしょうか?」

 そう言いながらも、店とは関係なく三人以上で口論している姿もあった。喧嘩のようにも見える。

「言い合い……、ですか?」

 きょろきょろとクレイアが周りを探すので、サラマンドは横の通りの奥を指し示した。

「そりゃ、賢人たちのことじゃないですかい?」

 そう言ったのは、荷物持ちとして一緒に来ている牧場の男だった。

「そうでしょうね。彼らはああやって議論をして、物事の真理を追究しようという人たちです。賢人と呼ばれることを好むのでそう言ったりもしますが、正しくは弁論家というところでしょうか」

「一日中ずっとああやって議論をしているのですか?」

「はい、一日中そうやって議論しています」

「いったい何をそんなに語るのでしょう」

「主に正義とか愛とか世界の成り立ちとか、人間とはどうあるべきかとか、まあ色々なことを真剣に議論しているようですよ」

 そんな雲をつかむようなことを延々と語り合っているのか。

 無為――。

 サラマンドは背筋が寒くなる思いがした。

「興味があるならあなたも話を聞いてみますか?」

「いえ、私はそういう難しいことはわかりませんので!」

 サラマンドは慌ててかぶりを振る。

「そうですか? たまに聞くと結構おもしろかったりするんですよ」

 やはりクレイアはこういうのが好きなのだなと、サラマンドはがっかりした。

 奴隷を買って労働させ、そして自分たちはなんの益にもならない、ふわふわした夢のようなことを語っている。

 こんな国は長くもたないだろうな――。

 三人は買い物を続け、通りの端まできた。とそのとき、

「では、君もそう思うのだね。正義の形は一つではないと」

 よく通る太い声が聞こえた。

 大通りの端で七、八名の男たちが議論に興じている。灰色の髭をたくわえた初老の男がおおげさな身振りで弁舌を振るう。どうやらこの議論の中心人物らしかった。論じる内容と同じく粗野な顔だとサラマンドは感じた。 

「……正義とはその個人によって形が変わる。それは今こうして我々が論をぶつけていることからしても明らかと言えよう」

「待て、それはそうだとしても、万人に共通する正義もあろう。それこそが本当の正義とは言えまいか?」

「うむ。まさしくその通り。それを我々はここで『真の正義』と名付けようではないか」

 クレイアたちは議論に熱中する男たちの脇を通り過ぎようとしていた。

「ああそこの君、ブラハム人だろう? 一つ訊いてもいいだろうか」

 髭の男がサラマンドに声をかけた。

 面倒そうにサラマンドは振り返ると男はぶしつけに問う。

「ブラハム人にも正義の価値観はあるのかな?」

 どっと男たちが笑う。

「はっは、それは言い過ぎだろう」

「奴隷にも正義はあるよなあ、聞かせて欲しいものだな」

「無礼な! 私の連れを侮辱するのですか。あなた方は正義を論じる前に、人としての礼節を知る必要がありますね」

 クレイアがずかずかと進み出て男たちに噛みつく。

「これは失礼した。かわいらしくもなかなか手強いご婦人だな」

髭の男が笑いながら軽く頭を下げた。

 サラマンドは二人のやり取りを黙って見ていたが、はっきりとした口調で男に言った。

「ブラハムには語るような正義はない」

 それを聞いた男たちは顔を見合わせ、一斉に大笑いした。

「まさか本当にないとはな」

「それでどうやって国が成り立つのか、まったく興味深いわ」

「いやはやまったく驚くばかりだ。これは彼に正義を教示して差し上げねばな」

 最後に髭の男がそう言った。

「正義とは、まず身の回りの人間関係からなる個人の正義から始まり、それを包括する集団の正義、さらには国家の正義と段階を上げていく。君はまず初歩の個人の正義を学びたまえ。弱者を助け、周囲に害なす不正を正すのだ。これくらいなら理解できるかな?」

 そう言い髭の男は大きく膝を叩いてまた笑った。

 と、そのとき近くを歩いている老婆がいた。

 道をふさぐ形で髭の男が立っていたため、それを大きく避けようとしたところ、別の男に勢いよくぶつかってしまった。

「痛えじゃねえか! おい婆さん、てめえスリか?」

 老婆はすぐ謝ったものの、激昂した大男の気は収まらず、激しく蹴り飛ばされて髭の男のそばで倒れた。

 髭の男はそれを見ていた。そして――、静かに目をそらせた。

 ならず者か。どこの世界にもいるものだ。

 サラマンドは蹴った大男のところへ出ようとしたが、それよりも早くクレイアが駆け出していた。

 倒れた老婆を抱き起こす。頭から血を流していた。

「なんてことをするのですか! ここまでするほどのことですか!」

「なんだ女。じゃあてめえがぶつかった詫びってことで金を払いな」

「払う必要はありませんね。あなたがこの女性に治療代と謝罪を込めて支払いなさい!」

 クレイアは一歩も引かず大男を睨んだ。

 大男が悠然と近づいてきたところでサラマンドが割って入る。

「ああ? 汚ねえ奴隷は引っ込んでな」

 大男はサラマンドの胸ぐらをつかみ殴ろうとしたが、サラマンドが一歩踏み込み身体を捻ると、それだけで男の身体は宙に浮き、背中から石畳に落ちたのだった。

 呻いた大男は起き上がり、奇声を発しながら勢いよく殴りかかってくるも、サラマンドは柔らかな足捌きで踊るようにかわしていく。

 両足首の腱は切れたままだ。だが屋敷の仕事をしながら傷を癒すとともに、サラマンドは新しい身体操術を探っていた。それは今まで以上に膝と腰を柔らかく滑らかに使うことだった。

 大男の怒りが頂点に達し、息を吐き吸い上げんとした刹那に喉元を指で突いた。軽く突いただけだったが、それだけで男は気を失い倒れたのだった。

 悪くない動きだった。これなら戦場でもまた戦えるかもしれない――。サラマンドは自身の身体に少し希望を持てそうだった。

 周りの人々はサラマンドに喝采を浴びせていた。見ると髭の男は隅で小さくなっている。

 サラマンドは男のところまで行き問うた。

「なぜ、あなたは何もしなかったのか。あなたを避けようとしてあの老婆はぶつかったというのに」

「それは私とは関係ないことだ。老婆が勝手にやったことではないか」

 目をそらしたまま、弱々しい口調で髭の男は答えた。

「では老婆が蹴り飛ばされて倒れたときは? あなたは一番近くにいたはずだ」

「それは……」

 男は押し黙ってしまった。

「私は先ほどあなたに、ブラハムには語るような正義はないと言った」

 声を張り上げるでもなく、相手をなじるでもない。淡々とサラマンドは言葉を続ける。

「ブラハムでは、正義とは語るものではなく、行動で示すものだからだ。年長者が示した正義を若輩者は見て学ぶのだ。そして正義の何たるかを知り、考え、行動する。正義とは言葉遊びではない」

 男の粗野な顔が歪む、呻く、そして――。

 サラマンドは男の動きを警戒した。

「すまなかった……。謝らせてくれ、非礼を詫びたい」

 男はサラマンドに深々と頭を下げた。そしてそのまま老婆のところにいき同じように頭を下げた。

 サラマンドは呆気にとられていた。そんなことをする男だとは思わなかったからだ。

 戦場にいたサラマンドは、相手の感情を読み取ることには長けているつもりだった。男の見せた態度に偽りは感じなかった。

 またサラマンドのところへ戻ってきて言う。

「私の正義論は不完全だったようだ。なぜ私はあのとき自分の正義に従い行動できなかったのか、それをよく考えることにするよ」

 和やかな空気になり皆安堵していた。が、そこに突然怒声が投げかけられた。

「おい待てブラハムの奴隷。俺は納得していないぞ」

 それは髭の男とともに議論をしていた別の男だった。

「何がブラハムの正義だ。さっきの身のこなしからしておまえは兵士だったのだろう。正義というならば、おまえらはなぜこのパルティアに攻めてきたんだ!」

「おい、やめないか」

 髭の男がなだめようとするも聞き入れない。

「俺の親戚はこの前の戦で死んだんだ。おまえらが攻めてこなければ命を落とすこともなかった。偉そうに正義を語るんじゃねえ。百人殺しとかいう凶悪なブラハム兵がいたらしいじゃねえか。何が正義だ。パルティアの富が欲しかったんだろうが。この殺戮を好む悪魔が!」

 男は一気に捲し立てて息を切らす。サラマンドは何も言い返さなかった。

 ふと手に優しく触れる感触があった。

 クレイアだった。サラマンドの手を取って言う。

「行きましょうサラマンド。守ってくれて、ありがとう」

 クレイアたちは急ぎ市場を抜けてゆく。

 早足で歩きながら、サラマンドはクレイアに言った。

「あの男が謝るのは意外でした」

「そうですね。でもそれが彼の誇りだったのでしょう」

「誇り……?」

「そう、あなたがいうブラハムの戦士の誇りのようにね。パルティア人にも誇りがある。それは己の非を認めること。恥でもあり悔しくもあるからこそ、素直に己の過ちを認められる者にはパルティア人は敬意を払うのです」

 あの男は正義を実行できるように成長するだろうか――。かたや自分はどうだろうか。あそこまで正義について真剣に考えたことがあっただろうか。自分の正義がもし間違っていたとしたら、それは不正を実行することになりはしないか。

 その後、サラマンドは屋敷に着くまで延々と自問を繰り返していた――。


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