第一話「ぷりん党」 06
「うぐっ! なんだ、この魅惑的な匂いは?」
甘美な夢に酔いしれるかの如く、女子特有の甘い香りが瞠に襲いかかる。
「マズイ、長時間この中にいると脳細胞がトロけてしまいそうだ」
女子柔道部室へ入ってみたものの、室内に犯人とおぼしき人物は見当たらない。それどころか、豪快に段ボールを脱ぎ捨てた彼が、思わず「これは罠か?」と的外れな考えを抱いてしまうほどの濃厚なフェロモンが室内に充満していたのである。
片膝をつき、崩れ落ちる瞠。彼は女性免疫が極端に低いので、女子更衣室に忍び込むなどハナっから無理だったのだ。
「ちょっと先輩。大丈夫ですか?」
そんな瞠の異変に気付いた隼人が、彼の前に駆け寄り心配そうに顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」
「隼人よ。お前はこの匂いを嗅いでも平気なのか?」
「えっ、匂い? べつにボクはなんとも……」
「なっ、なんだと!」
その言葉に愕然と見つめ返す瞠。幾多の修羅場(主にキララの暴力から)を切り抜けてきた彼でも、思わず白旗を揚げてしまうほどの青果実の香りに昏倒するどころか「平気」の二文字で片付けられてしまったのだ。このままでは、先輩としての威厳や、今後彼へ向けられるであろう尊敬の眼差しが危うい。
そう直感した瞠は「こんな所で不甲斐ない姿を見せるわけにはいかぬ。漢として凛々しい姿であり続けなければ、我が師匠に顔向けが立たないではないか」と心を奮い立たせ、全身にムチを打って「えいやっ」と立ち上がった。何を隠そう、瞠は見えっぱりなのである。
「隼人よ。私は大丈夫だ。私の事は気にしないで犯人を捜すのだ。モタモタしていると女子柔道部が帰ってきてしまうぞ」
彼は痛くもない腹をさすりながら「さっきのは立ち暗みだ」と苦しい言い訳をしてから、犯人が隠れていそうな場所を眼で探し始める。
「先輩、立ち暗みならさする場所は額か、こめかみが良いかと」
「バカ者。手を当てる場所などどうでもいい。犯人を捜すことを問題としなさい」
そう言って瞠が辺りを見渡して見たものの、部室内は整理整頓されており、犯人が隠れているスペースなど見当たらない。
左右と正面にロッカーが並べられており、グラウンドに面する壁には小窓が取り付けてある。逃げるのならば窓か、来た道を戻らなければならない。ロッカーは高すぎて登るのは不可能。縦しんば登れたとしてもココは二階である。打ち所が悪ければ骨折ではすまない高さだ。そうなると、犯人とすれ違った可能性も考えられたが、あれだけの仮面党の眼から姿を消して逃げることなど出来るのだろうか。
「パンティ泥棒が入ったとは思えないくらい片付いているな。我々の存在に気付いて逃げたか?」
「確かに、荒らされた形跡はありませんね」
隼人も瞠と同意見のようだ。
「とりあえず、隼人よ。盗まれた物が無いか確認するのだ」
「わかりました。それで、なにを確認すれば?」
「だから、盗まれたモノだ。パンティだ。パンティを見つけなさい。ぷりん部なら第一にパンティのことを考えなさい」
「はっ、はい。そうですよね」
頭を掻きながら慌てて探し始める隼人。瞠も呆れながら右側のロッカーを開けてみることにする。何処の部活にもありそうな一般的な縦長タイプの四人用ロッカー。鍵はシンプルなピンタンブラーらしい。パンティ泥棒が往来している昨今、これでは泥棒が出たとしても頷けてしまうくらいにセキュリティが甘い。この学校でパンティを手放すと言うことは、スラム街で財布を落すのと一緒の行為と言えよう。それこそ肌身離さす持っていなくてはならない。財布は盗まれなくともパンティは盗まれる。それがこの学校なのである。
「くそっ。戸締まりに問題なしっと言ったところか」
瞠はガチャガチャと取っ手を引いてみるも、カギが掛かっているらしく開けることが出来なかった。如何に、泥棒に狙われやすいピンタンブラー式だとしても、ピッキングの技術を持ち合わせていない瞠では当たり前の結果である。
「あっ、先輩」
「んっ、どうした? パンティが見つかったのか?」
振り返って隼人を見ると、彼は「ココ、キララ先輩のロッカーみたいですよ」と、ネームプレートを指さしながら言っていた。
「キララのロッカーだと? だからなんだと言うのだ」
「いや、ですからキララ先輩のロッカーなんですよ。先輩、それを聞いてなんとも思わないんですか?」
「なにを訳の分からないことを言っているのだ。我々はキララのロッカーを探しているのではない。パンティを探しているのだ」
「違いますよ。ボクたちは下着泥棒を探しているんです。でも、先輩はキララ先輩の下着に興味がないんですか?」
「隼人よ。お前はなにを言っているのだ。我々ぷりん党は、パンティラインに情熱を燃やす徒党だぞ。パンティに興味があるに決まっているではないか。ぷりん党ならパンティを探しながら犯人も探しなさい」
「先輩が喜ぶと思ったのですが……すみません」
一喝された隼人が項垂れる。それを見ていた瞠は溜息を吐き、
「いいか、隼人よ。確かに私はパンティが好きだ。だからと言ってお前が私を喜ばしてどうするのだ。先ほども言ったが、ぷりん部なら第一にパンティのことを考えなさい」
「先輩よりパンティを第一に考えろと?」
「そうだ。もし、私がキララにタコ殴りにされている最中でも、そこにパンティラインがあるのなら躊躇わずにキララのパンティラインを見るのだ」
「わかりました。今度、先輩がキララ先輩に首を絞められていても、ボクはラインを見続けます」
玲瓏たる美声で返す隼人に、「そのときは助けてほしいなぁ」と思ったが、さすがに言える雰囲気ではなかった。
「よーし。それじゃ、下着捜索を再開しましょう」
「あっ、あの隼人。お前がどうしてもと言うなら……」
「あれ? カギが開いている。変だなぁ、他のロッカーはみんなカギが掛かっているのに? キララ先輩、鍵を掛けるの忘れたのでしょうか?」
「なにっ! キララがカギを掛け忘れただと?」
この時、瞠は違和感を覚えた。
常日頃、瞠にパンティラインを見続けられているキララである。そんな彼女が、不用心にカギを掛け忘れることなどあり得るのだろうか。先ほど女子柔道場で出会った剣幕を鑑みて、まずあり得ない話。ならば、パンティ泥棒が出没した痕跡と考えて間違いないだろう。
そう考えた瞠は「待て。開けるな」と隼人の肩を掴んでいた。
「どうしました先輩?」
「パンティ泥棒が隠れているかもしれない」
「えっ! この中にですか?」
「そうだ。私の考えでは、我々の存在に気付き、慌ててロッカーの中に隠れたのだろう。ふん、バカなヤツだ。女子更衣室で身を隠すとなれば、いつの時代もロッカーと相場が決まっているのを知らないみたいだな」
「なんて根拠のない結論。でも、先輩の考えが当たっているのならば、犯人は袋の鼠って事になりますね。どうします? 開けて捕まえますか?」
「本来ならばロッカーを倒して、キララが来るまで放置してやりたいところだが、それでは私の気が収まらん。隼人よ、ゆっくり扉を開けるのだ。私が一撃で憎っくきパンティ泥棒を屠ってやる」
右拳を固く握りしめ、瞠は中腰の構えをとった。師匠から教わった秘技「地獄突き(ヘルズゲート)」で、パンティ泥棒を亡き者にしようと考えたのだ。
地獄突き(ヘルズゲート)とは、油断しきっている相手の喉仏に正義の鉄拳をお見舞いする恐ろしい技である。その威力は三段階で表され、正拳(レベル1)、手刀(レベル2)、肘鉄(レベル3)に分けられる。あまりにも危険が伴うため、師匠から教わった直後に封印されてしまい、今日まで使う機会が無かった。が、いまこそ、その封印が解かれる。
「地獄突限定解除要請。エラー。消去。エラー。消去。エラー。消去……」
口では強気な瞠だったが、いざとなって「中に入っているのが屈強な男だったらどうしよう」と、持ち前の度胸の無さが邪魔をしてなかなか踏ん切りがつかない。
「あのー、先輩。開けていいですか?」
しびれを切らして隼人が言った。
「ちょっと待ちなさい。まだ、心の準備が……」
「もう、早くしないとキララ先輩が来ちゃいますよ。
中腰のまま、いつまでも煮えきらない瞠に業を煮やした隼人が「時間が無いんですから開けちゃいますよ」と言ってロッカーを開けてしまった。
「あっ、ちょっと待って! ええい、こうなったら」
見切り発車で放たれた右拳は、バコッとロッカーの端に当たって無残に止まった。
大きく凹んだロッカー。それをあざ笑うかのように静かに開く扉。
「あれ? 誰も隠れていませんね」
苦悩の色に染まる瞠を無視して、隼人が中を覗き見ると、ロッカーの中には誰も入っていなかった。
「ふん。考えすぎだったようだな。驚かせおって……んっ?」
痛々しく膨れあがる右拳を押さえながらロッカーの中を見ると、不可解なモノが置かれていた。本来、女子更衣室のロッカーに入っているのは制服や下着などが入ったスポーツバッグが関の山である。それなのに、彼ら(徒党)が追い求める魅惑の逆三角形でも、豊満なバストを締め付けるモノでも、ましてや体操服でもなかった。
「こっ、この四角形は……」
チェック柄の生地に、特徴的な前閉じの穴。ウエスト上部にゴムが縫い付けてあり、思春期の男が穿く瞠がよく知るモノだった。
「せっ、せんぱい。これって……」
隼人が顔を赤く光らせながら震える声で言った。
「ああ、間違いない。トランクスだ!」
そうなのである。キララのスポーツバックの上に、脱ぎ捨てられたかのようなトランクスが置かれてあったのだ。
「なっ、なんでキララ先輩のロッカーにトランクスがあるのでしょう?」
「まさか……」
ロッカーの中にトランクスがあった現状。瞠の脳裏にひとつの可能性が浮かんでいた。
「いや、そんなはずがない」
かぶりを振りながらスポーツバックの中を確認してみたが――
「なっ、無い。キララのフルバックが無いぞ」
両手でスポーツバックの中を引っ掻き回してみたが、中に入っていたのはタオル・Tシャツ・テーピングなど。ブラジャーはあってもパンティのパの字も入っていなかった。
キララは部活が終わると、いつも汗で濡れた下着を履き替えている。毎日、(ラインを)確認している瞠が知らないはずがない。それなのに、その履き替えるパンティが見当たらないのだ。替えのパンティがないのにトランクスは置いてある。それが導き出す答えとは。
「おのれ、キララ。私にパンティの柄を知られたくないとはいえ、トランクスに手を出すとは……なんたる暴挙だ! あとで説教してやる」
「違いますよ、先輩。これはキララ先輩のトランクスじゃありません」
「なっ、なんだと! キララのトランクスではないだと。隼人よ。なぜ、そう言い切れるのだ」
「言い切るも何も、女性が男物の下着を穿くこと事態に無理があります。普通に考えて、これは誰かの下着です。なんでキララ先輩のロッカーにあるのかはわかりませんが……」
「わからないだと? キララのパンティがなくてトランクスがあるのだぞ。キララのではないのなら、パンティは何処にいったのだ」
「もしかして、屋上で見た犯人の目的がコレだったのかもしれません。あの犯人はキララ先輩の下着と自分の下着を交換することが目的だったのでは?」
「しっ、下着の交換だと! なんて恐ろしいことを言うのだ隼人よ。お前、正気か」
「確証はありませんが、替えの下着と脱いだ下着の区別くらい見れば分かります」
「キララのパンティを穿いてどうするというのだ。何がしたいのかさっぱり分からん」
「いや、ですから、目的はキララ先輩のパンティを穿くことだったんです」
「キララの……パンティを……はっ、穿く?」
隼人の結論に、瞠は今日何度目かの驚愕を余儀なくされた。キララのパンティを穿くだと? そんなアホなことがあるわけがない。キララが霊長類最強っと知ってて、そのパンティを盗むどころか穿いたというのか?
「そんなアホなことがあるわけなかろ!」
そう思ったときには、即座に隼人の推論を比定していた。
「えっ、でも、現にトランクスが……」
「いいか、お前はキララのことをよく知らないからそんなことが言えるのだ。よく聞きなさい。キララは、私がパンティを見ているだけで目玉をえぐってくる女性なんだぞ。その他に、有段者でありながら柔道技を平気でかけてくる女だ。何度、キララに投げ飛ばされたか数えるだけで吐き気がする。そんな暴力女のパンティを穿きたいなんて漢が居るはずがないし、居てはならないのだ。そんなことをすれば殺されるだけではすまないぞ」
「たしかに、ボクはキララ先輩のことを先輩より知りません。しかし、強くて格好良くて綺麗な人じゃないですか。そんなキララ先輩のことを好意的に想っている人の一人や二人くらい居ると思います。たしかに、猟奇的で逸脱した犯行だとは思いますが……」
「こっ、好意的だと……。隼人よ、断言しよう。そんなヤツは地球上を探してもいるはずがない。宇宙規模で考える難題だ。むしろ、宇宙規模で考えても女性のパンティを穿くヤツなんているはずがない」
「そんなぁ、キララ先輩がカワイソウですよ」
「お前は何に同情して……」
『なによ! このミカン箱。昨日より数が増えているじゃない』
その時、女子の話し声が廊下から聞こえてきた。
「ヤバイ。あの声は……キララだ!」
「えっ、それってマズイですよね?」
次の瞬間、二人に緊張が走る。無駄な時間を過ごしているうちに、女子柔道部の部活が終わってしまったらしい。隼人は瞠を見上げ「どうしましょう」と助言を請うが、当の瞠はアタフタと視線を泳がせながら「どっどっどっどっどうしよう?」と、先輩の威厳も格好良さもなく逆に後輩に助けを乞うてしまった。
『私から先生に言っておかなくちゃダメね。丹下先生じゃ当てにならないし。とにかく、さっさと着替えちゃいましょう』
声は部室の前で発せられていた。二人が部室内に居ることをキララが知れば、目玉をえぐり取られるだけでなく、パンティ泥棒のレッテルをも貼られてしまう。
「そうだ! にっ、逃げなければ!」
瞠がロッカーの上に取り付けてあった窓によじ登ろうとしたが、ロッカーが高すぎて登るどころか、落ちて尻餅をついてしまった。
「なにやっているんですか。遊んでいないで隠れてくださいよ」
瞠は至って真剣なのだが、如何せん動揺しているので、テンパリ具合がハンパでない。
「そっ、そうだ。さっきのミカン箱に……」
慌てて瞠が出入口に投げ捨てた段ボール箱へ手を伸ばそうとしたとき、
ガチャリと、地獄のドアが開かれてしまった。