第三話「六月一日」 15
名人率いるブラジャー派が見事に玉砕したころ。護ノ宮神威は未だに更生部部長……いや、紫の薔薇の男を睨みつけていた。
「どうしたんですか? ボクの減らず口を止めると言ったのは嘘だったんですか?」
「…………」
神威は言い返さなかった。正直なところ、生まれてこの方ケンカなんてものをしてこなかった神威には、この先の展開を知らなかったのである。そもそも右足から歩くべきか左足から歩くべきかもわかっていない。歩き方も忘れてしまった神威にとって、ケンカどころの問題ではなかったのだ。
「そういえば、まだアナタに成功報酬を渡していませんでしたね」
「成功報酬?」
ようやく神威が聞き返すと、紫の薔薇の男はニヤリと笑った。
「お忘れですか? アナタが下着を盗んだ報酬ですよ」
「そんなものはいらん。そのかわりお前の顔を殴らせろ」
「殴る? なぜ、殴られなければならないのですか。あれは合意の上だったはずです」
「確かに俺が合意したことだ。だが、お前が俺をそそのかさなければ俺が捕まることはなかった」
「それはアナタの落ち度でしょう。ボクには関係ない話です。それに、あれほど徒党には注意するように言ったでしょう」
「黙れ」
「そう怒らないでください。ですから先ほどから報酬を差し上げると言っているじゃないですか。なにがいいですか? そうだ! アナタが盗んだ下着なんてのはどうですか? 自分の下着を置き忘れるくらい気に入ったんでしょ。そうだ、それにしましょう。安藤キララの下着を差し上げますよ。それとも他の下着がいいですか? どうです。アナタにお似合いの報酬だと思うのですが」
「うるさい。その名前を口にするな」
「おや、安藤キララという名前に反応しましたね。どうしたんですか声を荒らげて、そんなに安藤キララの下着が気に入ったんですか」
「しゃべるなと言っているだろう」
「言っていませんよ。どうしたのですか、そんなに怒って。本当に安藤キララのパンティが気に入ったんですか?」
紫の薔薇が高笑いをしながら、それでも神威を挑発することを止めない。
「……黙れ」
「本当に怒ってますね。理解出来ませんね。もしかして彼女の事が好きにでもなりましたか?」
「だっ、だまれええええええええええ」
紫の薔薇の男のムカツク顔を見て、神威の頭の何かが音を立てて切れた。神威は無心で拳を振り上げて紫の薔薇に殴りかかる。
「あはは、図星ですか。下着を穿いた相手に恋をするなんて前代未聞ですよ。アナタは変態さんですか」
「俺は彼女に謝りたいだけだ」
振り上げた拳を叩きつけようとした時、神威の身体がふわりと持ち上がった。そして次の瞬間、神威は空を仰いでいた。
「ぐはっ」
遅れて背中に衝撃が走る。肺の中の空気が一気に口から飛び出すのを感じた。
「なっ、なにが?」
神威は自分が倒れているのが中庭の芝生の上だと知った時、初めて自分が投げられたのだと気付いた。
「謝る? 盗んだ張本人が謝罪ですか。つくづく底辺の男ですね」
苦しく息をする神威を見下ろしながら、紫の薔薇は言葉を止めない。
「謝るくらいなら最初っから引き受けなければいいんですよ。わざわざ傷口を広げるようなマネがよく出来ますね」
「うるさい。俺にはもう謝るしかないんだ」
両手をついて起き上がろうとする神威。しかし、投げられた衝撃で脳が、視界が揺れてしまいなかなか立ち上がることが出来なかった。
「ひとつ良いことを教えて差し上げましょう。一番の贖罪は彼女の目の前に二度と姿を現さないことですよ」
「それだとダメなんだ」
不甲斐ない自分への怒りを目の前の芝生に叩きつけた瞬間、またもや神威の身体は宙を舞った。
「ダメなのはアナタですよ。何度立ち上がろうとしてもアナタの攻撃はボクには届かないのですから。そのまま寝ていてくださいよ」
倒れた神威の頭の隣に、紫の薔薇の足が見えた。どうやら、紫の薔薇は上体を起こした状態の神威を投げ飛ばしていたらしい。座った状態の相手を投げる芸当は、いかに熟練した者でも難しく、容易に成功することはない。それをやってのけてしまった紫の薔薇と神威との実力差は雲泥の差にひとしい。
「ごほっごほっ。お前が何を言っても関係ない。俺は謝るんだ」
震える膝、力の入らない両腕に鞭打って、今度は立ち上がる事が出来た。
「やれやれ、このままだとストーカーになってしまいそうですね。そうなる前に安藤キララに代わって引導を差し上げましょう」
「引導は直接もらう。お前は黙ってろ」
そう言った次の瞬間、神威の身体はくの字に曲がり、そのまま無防備になった顎を打ち上げられてしまう。
神威には何が起こったのか理解出来なかった。それほどまでに紫の薔薇の攻撃は早かった。
放物線を描くように吹き飛ばされた神威は、芝生の端にある水栓柱の位置で停止した。
「うぐぐ……」
「そんなに謝りたいのならボクを倒して謝りに行けばいいじゃないですか。ほら、アナタの意中の人が三階の窓に居ますよ」
その言葉で神威は学生校舎を見た。三階の窓。見上げた先に安藤キララが居た。窓から顔を出して中庭の光景を見下ろしている。いや、キララなのか正直認識が出来ない。何故なら、キララの顔を認識することが出来ないほどに神威の身体は疲弊しきっていたのだ。常日頃鍛えていない脆弱な肉体の神威が、紫の薔薇の攻撃を一撃でも堪えたこと自体奇跡だった。
「なんだ……あそこに居たのか。お前に言われなくてもそうするさ」
水栓柱を支えに立ち上がった神威。彼の袖口が蛇口に引っ掛かり、少しだけ蛇口が回った。芝生に取り付けられたスプリンクラーから微量ながらも水をまき散らす。
「なんですかこれは? せめてもの抵抗ってやつですか」
「……抵抗。そうだよ。情けないけど、俺がお前に出来ることと言ったら、お前を水浸しにすることくらいだ」
そう言って焼けになった神威が蛇口を目一杯回す。勢いよくスプリンクラーから水がほとばしり、神威の身体、紫の薔薇の身体を濡らしていく。
「気持ちがいいですね。アナタの抵抗がこんなにも清々しいとは知りませんでしたよ」
「そりゃ、どうも」
スプリンクラーのしぶきは中庭全域にまで飛んでいた。
そのとき、何処からとも無く「我が学校生活に一片の悔い無し」とブラジャー派が叫びだし、次々にゾンビの如く立ち上がりだす。
「おや? 今まで虫の息だった人たちに生気が蘇った? なぜ、彼らは突如立ち上がったのでしょう」
訳が分からず首を傾げる紫の薔薇。今まで観戦していたギャラリーの中から「きゃー」や「おおー」と言う歓喜と悲鳴が沸き上がっているのが紫の薔薇には理解が出来なかった。その最中にも神威は、一点に紫の薔薇を見ている。
ゾンビのように起き上がるブラジャー派。理解しがたい現状に困惑する紫の薔薇。彼は神威の姿を完全に視界の外へ置いていた。
だからこそ神威は走った。あらん限りの力で芝生を蹴った。もう、自分には力が残っていないことを自覚していたから。
神威が動いたことで、ようやく紫の薔薇は視線を神威に戻す。
「虚を衝いたつもりでしょうが、ボクには無駄です」
そう言って慌てる素振りも見せずに構えをとる。神威の拳を避けてから、そのままみぞおちへ当て身を喰らわす。それが紫の薔薇が描いたシナリオだった。
「終わりです」
勝利を確信した次の瞬間、神威の右拳はフォークボールのように急降下した。濡れた芝生に足を滑らせてしまった神威。彼はそれでもお構いなしに体重を乗せて拳を振り下ろす。
「えっ?」
神威が振り下ろした拳の先には、紫の薔薇の股間があった。
「…………」
「……」
沈黙が流れた数秒後。紫の薔薇は「みごとです」と言って崩れ落ちた。神威も力の全てを紫の薔薇の股間にぶつけたので立ち上がることが出来なかった。
紫の薔薇と神威の死闘は両者ノックアウトで終わりを告げたのだった。




