雪に降り込められつつある山道
りーん、りーん、
森を渡る済んだ音は、熊よけの鈴の音である。
「ぼっちゃん、大丈夫か。ヨーに乗っていくかぁ?」
ケサルがヨーの背をぴちぴちと叩く。
「……、だいじょうぶ、です」
息も絶え絶えに返事をすると、「まーた、『大丈夫』かよ」と悪態で返される。
ヨーは脚力に恵まれた獣で、悪路に強い。翼は退化しているが、短い距離ならば跳ぶこともできる。
重い荷を引かせたり成人男性を乗せたりすることは嫌がるが、それでもカイはまだ少年期を脱していないためか、ヨーはそれほどカイを拒絶していない。
乗せてもらうという選択肢もあったが、カイは自分で歩くことを選んだ。
カイは、徒歩のときは、杖を携帯している。
その杖は、老師ロミが持たせてくれたものだ。
半球の、幾何学的な頭飾りがついている。ロミが自ら設計し、削り出した杖であった。
「賢者さまより立派なもん持ってよぅ」
口は悪いが、反面ケサルは一行の様子をよく観察し、休憩を挟んだりペースを調整したりと働いている。
仕事はできる男であるようだ。
林道は幸い、まだ根雪にはなっていない。
晩秋の名残のキノコや木の実、枯れ残るシダ植物の中に、貴重な薬材となるものもあるらしく、賢者もたびたび足を止めては一行の歩みを鈍らせる。
「あと、どのくらいですかね」ニルギリが問う。
「慣れた奴ならこのまま抜けるんだが、この調子だからな。無理はしねぇほうがいいな」
ケサルは憮然とした顔で答える。
「なんかすんません」なぜかニルギリが謝った。
「す、すみません」足を引っ張った自覚のあるカイも頭を下げる。
ケサルは「こんどは『すいません』かよ。あーあ」と、頭の後ろで腕を組んだ。
「カイ、見てください、この根は食べられますよ。酒に漬けると滋養強壮にもいいです」
賢者は嬉しげに、空気を読まずはしゃいでいる。
人目の多い里では見られなかった一面であった。
「賢者さまぁ、勝手に道を逸れないでくだせぇよ。熊がでますぜ」
「あ、ええ。す、すみません」
賢者も焦って頭を下げる。ケサルは熊よけの鈴をりんっと鳴らしてそれに答えた。
※※※
一晩の野営をした。
野営所といっても、水場と小屋が整えられている。たまに利用されているらしく、人の手が入っていた。
「明日は難所だ。一気に抜けなくちゃなんねぇ。山のもんも、天候が悪いときはここで日を調整すんのよ」
ケサルが、鍋を大きな匙でかき混ぜ、中身をちゅっと味見する。
「ささ、賢者さま、ぼっちゃん、よおく食べてちゃんと寝といてくだせえよ」
ケサルが、米粉を練った団子と茸のスープを、鍋からそれぞれに取り分けた。
焚火には、野兎の肉が炙られている。
食べ慣れぬ野味の強い肉に、カイはアルッカの市で買い求めた香辛料で調味をした。
「気の利いたことするじゃねぇか。野営の時のメシはよ、塩をぱっぱっとふりかけて噛り付くだけで上等だと思ってたぜ」
脂が弾け肉が焼ける音に、ガラムの食欲を刺激する芳ばしい匂いが加わり、あたりに漂い始めた。
「…ケサルさんは、まえのお祭りのこと…、覚えて、ますか?」
カイはそう言いかけて、言い終わるまでの間に自分の失敗を悟った。
ここまでの道中で、ぎこちないながらも関係を築きかけていた一行の空気が、一気に凍り付いてしまったのがわかる。
その一瞬の、鬼のような形相を、カイは目に焼き付けてしまったのである。
しかし、さすがにケサルは「大人」であった。
すぐにヘラヘラとした表情を作り上げ、酒をあおる。
「前の祭りのときぁ、俺は19だったかなぁ。嫁になるはずだったオンナに逃げられて、落ち込む間もなく徴兵されて戦争に行って、散々な目にあってよ。それからは酒浸りの人生だ。まぁ、守る家族もいねぇから、定職につかなくてもよ、たまにこうやって道案内の仕事が入ったりしてな、食ってくことはできるし。カミサマに生かされてるっていえば、そうなのかもなぁ」
肝心の、祭りの内容については、はぐらかされたという感が強いが、それなりにいろいろあったのだろう。
しかし、ケサルは49年前に19歳だったのか。驚きだ。現在70近くで現役とは。
ケサルは浅黒い肌と灰の瞳、灰の髪を持つ、小柄な男だ。
背こそ低いが、獣の毛皮に裏打ちされた外套の中にはしなやかな筋肉が詰まっている。
どう見ても外見からは、60歳を上回っているようには見えない。
山の民の頑強なことに驚きを覚えつつ、カイはケサルの葛藤を、酔いにまかせたものだろうと聞き流すことに決めた。
ニルギリはケサルの杯に酒を継ぎ足した。賢者も、沈黙を守り酒を飲んでいる。
小屋の内部は簡素な板張りの床、それだけである。
眠れないかもと思ったが、疲れ切っていたのだろう。カイの感覚は意識するまでもなく一瞬で「閉じて」いった。
※※※
翌朝は、幸いにも晴れていた。
運が悪いと、この時期でも横殴りの吹雪が激しく、進むのも厳しいところなのだとケサルは言う。
崖に沿う、人ひとりがすれ違えるかどうかの道幅の切通しを半日。やっとのことで抜け出す。
山がぽっかりと切りひらかれた場所に出た。
ここまでくれば、山肌が壁の役目を果たし、風もだいぶ落ち着くようだ。
凍りつく足元と吹きすさぶ雪おろしに苦労させられた道程が幻だったかのように、おだやかな光景が広がっていた。
「よく頑張ったなぁ、ぼっちゃん」
ヨーを先導するケサルがカイを振り返って笑顔を見せた。そして、その下方を指し示す。
「まぁ、最後の難関っていうか、頑張れや」
「うわぁ……」
思わずため息をついたのは、賢者のほうである。
賢者は高所が苦手なようなのだ。先だっての崖道でもいささか腰が引けていた。
カイから見て博識で人格者で完璧な師であるように映っていた賢者の、もうひとつの意外な面であった。
足を踏み出しかねている賢者に、カイは並んでその光景に見いる。
「ははは。これを渡るんですねぇ。他に道はないんですよねぇ」
「安心しろって。ホワンの民が架けた橋だぜ。めったなことじゃ落ちねぇよ」
峡谷にかかる、長い長い吊り橋である。
大工の民として名高いホワンの民であるから、彼らの架けた橋はさすがにしっかりとしているが。
「ちょっと揺らしてやろうかぁ、ほれほれ」と、ケサルが桁を支える大綱を揺らす。
しかし、遠景には霊峰、メイ山の雪を抱く頂。
眼下には切り立った崖、はるか底に水の枯れた沢となっては、慣れぬ師弟は平静でいられない。
「やめてやれ、ケサル」
ニルギリが固い声でケサルを止める。
「はいはい。お役人さまはおっかねぇや」
ケサルは肩をすくめた。
「ケサルはヨーを連れて、先に。村長に到着を知らせてください。次にカイ、そのあとにウィシュク行け。こういう橋は、何人も一度に渡らないほうがいいんだ。俺が最後に渡るから」
ニルギリはケサルから荷を一部受け取って、隊列を整えた。
山の案内人であるケサルも、ヨーを引きながら橋を渡るのは神経を使うようだった。
ヨー自体は足場の悪い道や谷に慣れているとはいえ、興奮するとまわりの荷や人を振り飛ばし駆け出していってしまう習性があるためだ。
ケサルはヨーと自分に命綱をつけ、「ヨーィ、ヨーィ」とやさしく歌うように先導する。
ぎいぃぃぃぃ、ぎぃぃぃ
ヨーィ、ヨォォォィ
その呼び声はこだまとなって谷に響きわたった。