ぬくい水のほうへ
船から飛び降りた賢者とノルは、水面へと頭を出す。
村人の目につかないほうに泳ぐとなると、滝へと向かうしかない。
はるか高みには水飛沫が凍りつき、あらゆる光源を反射する様子が、まるで物語の舞台の王宮の柱のように輝いている。
落ちる水は絶えることなく、滝壺は渦を巻き、すべてを飲みこもうとしているようだった。
泳ぎには慣れているノルも、冬の淡水湖の冷たさに意識を引かれそうになり、手足をばたつかせた。
「力を抜いて。浮かぶから」
息をつごうと持ち上げた顔のすぐ近くで、賢者が囁く。
「『ぬくい水のほうへ』と言ったね」
賢者の問いかけに、あぷあぷと溺れそうになりながらも、ノルは「はい」と答える。
連鎖した花火が空を彩る。照らされる水面では水煙が靄をおこし、ふたりの姿をほんの少し人々の目から隠してくれているように思えた。
「この湖は、真冬でも、凍りついたことはないの。だから……、どこか、温水が沸く場所が、あるのかもしれないわ」
「そうか」
それを辿っていけということなんだね、と、賢者は頷いた。
「腕を引いていてあげるから、そのままで」
賢者は水流を読みながら、ゆっくりと泳いだ。
袖も裾も長い浄衣は、水を吸いひどく重い。
やがて、水を掻く裸足のつま先に、明らかに異なる温度の流れを感じた。
(ぬくい水というより、熱いお湯、なのでは?)
賢者は内心に疑問を抱えながら、その流れを遡り、滝壺の裏側へとノルを導いた。
※※※
「射て」という声に、一斉に放たれる神弓隊の火矢。
火薬の匂いと、花火が開く音。
ぱぁん、ぱぁん。華やかに連鎖する、火の玉が空へと打ち上げられる。
赤々と燃えあがる、船。
カイが隠れている少し離れた高台からは、あまりにも遠すぎる出来事が、目まぐるしく視界を行き交う。
なにか、ただならぬことが行われているというのは、すぐにわかった。
(……まさか)
祭りの只中、衆人が見ている中で、こんなにも派手に仕掛けられるなんて。
カイも賢者と同様の疑問を抱きながら、この距離ではなすすべもない。
嘴が、カイの袖をくわえる。
はっとしてそちらを見ると、ヨーは普段折りたたんでいる翼を、ゆっくりと広げる。
「跳んで……、くれるの?……賢者さまと、ノルがいるところが、わかるの?」
ヨーはべろん、とカイの顔を舐め、「ヨー」と鳴いた。
「道を、開けて!!開けてっ!!!!」
カイは、ヨーの背に跨り、身を伏せた。
ヨーは隠れていた藪の中を飛び出し、土手を駆け下りた。湖畔の群集にまっすぐと向かっていく。
「お、お願い。どいて!どいてください!!……どけぇぇぇぇ!!!!」
どどど、どどどど……
人の波をかき分けるように、勢いを増すヨー。
ヨーは風を集めて、ふわり、と飛び立つ。
「カイ!!手ぇ貸せ!!」
「……え?」
反射的に、体が動いた。
カイは右手でヨーの鬣をしっかりと掴み、左手を伸ばす。
ニルギリは剣を利き手から持ち替え、2歩ほど後ずさって助走をつけると、信じられない跳躍力を見せてそれを掴んだ。
突然の招かざる乗客と、血の匂いに驚いたヨーが、抗議するかのような大きな身震いをする。
「悪い。説明は後だ」
眼下に転がる、首のない死体。
(……あれは、……ケサル、さん?)
文官であるニルギリが今まで見せていなかった荒々しい気配に触れ、カイは背中に冷たい汗が流れるのを感じる。
しかし、ケサルが指揮した神弓隊が、明らかな殺意を抱いて賢者とノルを標的にしたのも、また、事実と認めるしかない。
2人分の重さを背にしたヨーは、湖水面すれすれを跳んでいる。
湖畔の人々は矢も尽きたのか、追撃するでもなく、それを見送っていた。
花火はまだ終わらない。
燃える船の周囲には、鮮やかな造花が、隙間なく浮いている。
綺麗だ、と、カイは思った。
ヨーは2人を乗せたまま滝に突入し、落ちゆく水流の隙間を通り抜けた。
※※※
ニルギリが、口元を覆っていた布を外した。
賢者が、ぐったりとしたノルを介抱していた。
ヨーの突入と、その背のふたりに、目を見開いて驚いている。
「どういう、ことだ」
ニルギリが荒い呼吸のまま、ヨーから飛び降りて賢者に詰め寄る。
「……なぜ、ここに?」
「……なぜ、黙っていた?」
言葉が被る。
「……ケサルさんがああいう、直接的な手段をとることは想定外でしたので」
「情報が足りていれば、防ぐことは可能だったはずだ。俺の耳に入らないよう、止めていたな。答えろ!」
ニルギリは洞窟の壁際に賢者を追い詰め、怒りに満ちた目で睨みつけた。
「関わってしまえば、あなたが困った立場になるでしょうから」
「俺はよっぽど、信用がないようだな……うっ」
と、ニルギリはうずくまり、ごほごほと咳きこんだ。
「あの煙は、何だ」
「アサの葉を精製したものです。幻覚作用があるんです」
「ちっ。……少し吸った。影響が残るものではないだろうな」
「時間がたてば、抜けるかと」
祭りにアサの葉を炊くことは、この地で古代から伝わる風習であった。
賢者はその成分を調整し、目眩しの作用を強めていたのだ。
カイはノルのもとに駆け寄った。
ノルは、薄い浄衣を身に貼りつかせて、体の線をあらわに浮かび上がらせている。
目元の化粧が滲んで、黒い涙が頬を伝っている。カイは目をそらしながら、自分の外套を彼女にかけた。
濡れたままでは、体温は下がる一方だろう。だが、幸いにも、洞窟内は温かい。
(……あたたかい?)
周囲の様子も、ぼんやりと見える。光源があるということだ。
(……おそらく、火のような)
ノルをヨーに凭れかからせる。
洞窟の奥のほうへ、カイは歩みいった。そう、奥へ行けば行くほど、光源は強まっているように感じたのだ。
その証拠に、進むほどに空気中の熱もどんどん高まっている。
「カイ!?」
「おい、カイ!ひとりで先に進むな!!」
言い争っていた賢者とニルギリがカイの様子に気づき、声をあげる。
もう一歩……。
赤黒く光る地面に、足を踏み入れる。ぐにゃり、とした感触。生き物のようにうごめく赤い泥が……、
カイの長靴を、燃やした。
「!!!!」
カイはその場から、とびすさって後退した。
洞窟の水溜りに靴底を叩きつけ火を消す。幸い、それはすぐに消えてくれた。
鼓動が早まる。
ニルギリがカイに駆けより、溶岩の蠢く深部の前に絶句した。
カイの靴を燃やした、赤い泥。目が慣れてくると、洞窟はずいぶんと深いように見える。
ごーーーーーーーーと、地が響く音。
足元は船の上にいるかのように、心もとなく揺れる。ホワンの村に来てから、何度か味わった感覚だった。
その音の根源がここにあるのだろうか。
「お迎えにあがりました」
いつの間にか、目の前に、長衣の男が立っていた。
アウムだった。