大祭、そして花火 2
冬の日が傾いていく。
カイは、時間が過ぎていくのを、じりじりと待っていた。
所詮は牛舎だ。
鍵は頑丈なものではあるが、複雑なものではないはずだ。大丈夫。
引き戸の前で膝をつき、慎重に仕掛けを解いていく。やがて、かたり、と音がして鍵が外れたのがわかった。
「ヨー」とヨーが鳴いた。
連れて行けとばかりに、前足で地をかりかりと掻く。
この賢い獣は、夜半に自分が屠殺される運命を知っているのかもしれない。
「一緒に、来る?静かにね。見張りが、いるかもしれないから」
ノルに案内された村だ。生垣の隙間も裏道も湖畔を見渡せるとっておきの隠れ場所も、ノルが教えてくれていた。
カイはヨーをつれ、村長の屋敷をそっと抜け出した。
※※※
霊峰メイの山頂が、夕日に赤々と輝いている。
ニルギリは貴賓席の一角で、村の役員に囲まれてその時を待っていた。
「そろそろ出航ですよ」と、隣に座る男が耳打ちする。
時折、地が鳴くように震える。ゴーゴーと、風が唸る音にも似た。
「最近、多いですね……」
「前回の大祭で……」
「星神様のお怒りが……」
「御山の鳥竜が目覚められたとか……」
「ははは、まさか……」
村人たちの話す声が耳に入る。たしかに、小さな地震が何度か、この地入って感じられたようにニルギリも思いあたる。
ニルギリは腕を組み、椅子の背に凭れかかった。
やがて、祭りのはじまりだ。鐘が鳴る。どぉん、どぉん、と太鼓が鳴る。
湖に、すべるように現れたのは、白木の大きな船だった。
無数の松明と、湖に浮かべられた灯篭、造花。
それらに照らされて、船はゆっくりと進み、湖の中央に止まる。
船の操舵をしていた船員が、小舟でそこから離れてゆき、甲板には星神の依代と月の巫女のみが残った。
ゆったりとした太鼓と、笛の音。
音楽の転調を合図に、儀式が始まる。船上のふたりは、流れるような動きで、扇をときに手紙のように、ときに剣のように扱い、物語を紡いでいく。この距離から見ると、生命を持たない人形が舞っているかのように神秘的な動きだ。
「ほぉう」
ニルギリは時を忘れて見入ってしまう。ウィシュクにこんな特技があるとは。心地よい驚き、と、何かに引っかかる、感覚。
――甘い、香り?
ニルギリは鼻の上にしわを寄せた。どこからともなく、甘い香りが漂う。
観客席の人々は、何かに陶酔するかのようにざわめいている。
ひときわ大きな火にくべられている、あれは護摩だろうか。ニルギリの本能が、警告を発した。……この煙は、危険だ。
手拭いで顔を覆い、直接空気を吸い込まぬように呼吸を潜め、ニルギリは立ち上がった。
音楽が、また、転調する。その時。
「撃てぇぇぇぇーーーーー!!!!!!」
地を切り裂く声が響き渡った。
その鬨の声は、ケサルの声に似ていたように思う。
神弓を引く男たちが、神の船に向けて一斉に火矢を放った。
「なっ!?」
演出とは信じられない。本気で船を沈めようとしている。
現状を認識する余裕もないまま、ニルギリの足は弓隊の天幕へと走った。
「ケサルーーーー!!!!」
並ぶ椅子を蹴散らしながら、貴賓席の頂点に座る村長の顔をちらと見る。
その男は背筋を伸ばしたまま、表情を動かさずそこに座っていた。
周りの若衆がニルギリを止めようと囲みかけるのを、ニルギリは剣の鞘で打ち散らした。
「何をしている!!どういうことだ!?」
「次ぃ!構えっ!!」
ケサルはニルギリを無視して号令をかける。ニルギリはケサルの肩を掴んで地に放り投げる。
「はははは、天に帰れ、神も巫女も」
ケサルの号令で、神弓隊が船を射ている。ケサルはニルギリに押さえつけられながら、笑っていた。神弓隊の男たちは、表情を変えることもせず、淡々と弓を絞り続ける。ニルギリは突然の展開に驚き、ケサルの喉元を締め上げた。
火矢の何割かは船に命中し、燃え移り炎をあげる。
神舞を躍る彼らは、と見ると、白い袖が今燃え上がるところだった。
(袖……だけだ。衣服を囮に脱ぎ捨て、身を伏せたか。ウィシュクのことだから、巫女を守って無事にいるだろう)
安堵のため息をつくが、船が燃えてしまえばどちらにしても逃げ道はない。
(どうするつもりだ、あいつ。……ちっ、何が起こってるんだ)
船の側壁を舐める炎が、やがて、へりを囲む筒の導火線に引火した。
ひゅーるるる、ひゅーるるる、
猛禽の羽音のような、風を切る音。
花火が。
ぱぁん、ぱん、ぱん、
ぱんぱんぱんぱんぱん、
花火は連鎖して追爆し、物凄い音を立てて打ちあがった。空を明く染め上げる。
村人たちは惨事に驚くでもなく、甘く陽気にざわめいている。この香か、やはりおかしい。
神弓隊は次の矢をつがえ、訓練された動きで途切れなく打ち込んで行く。
「あいつが馬鹿だったんでさ。せっか惚れた女を手にする機会だったのに、自滅しやがって」
ニルギリに押さえつけられたケサルが笑う。それは、49年前のこと。
「なんでもかんでも人に尻拭いを押し付けやがって。あいつはガキのころからそうだ。ざまぁみやがれ」
49年前の儀式は、失敗に終わったとは聞いていた。
星神の依代に選ばれた18歳の青年アウムは、恋人であった月巫女をその手で害することを拒絶し、幽閉された。依代はアウムの兄が引き継いだが、月巫女は儀式の最中に忽然と姿を消し、以降遺体も見つかっていない。後にカイはその巫女とアルッカの市で出会っている。儀式の失敗の直後に4国戦争が激化し、多くの人が死んだことによって、大祭の意義は逆説的に神格性を増していた。
しかし、儀式の失敗に至るその詳細を、今の時点のニルギリは知らない。
だんだんと苛立ってきたニルギリには、要領を得ないケサルの話声が耳障りだ、と感じられてきていた。
「終わりだ。全部終わらせてやってんだ。神も巫女もくそくらえ。この祭りは、この村は」
祟り神だ。憑りつかれてやがったんだ。それももう全部おしまいだ。
オレが終わらせてやる。
あーっはっはっは、と、ケサルは狂ったように笑う。
「言い残すことはそれで全部か?」
霊峰メイを、打ちあがる花火を背景に、ニルギリは鬼人のような表情を浮かべてケサルを見下ろした。
ニルギリは抜身の剣を振り下ろす。
ケサルの首がごろり、と転がり、湖の波打ち際に赤い血の波紋が、じわりじわりと広がっていった。
※※※
冬の日が山の端に隠れようとしていた。賢者とノル。星神の依代と月の巫女を乗せた白木の大船が、松明の火に照らされている。
音楽の転調が、舞の終盤を一気に盛り立てる。
急かすような、もどかしいような太鼓のリズムが、星の神と月の巫女の鼓動のようにあたりを打ち付ける。
「撃てぇぇぇぇーーーーー!!!!!!」
地を切り裂くような雄叫びは、大地を裂き湖を分け、神の船まで届いた。
「賢者さまッ!!」
「ノル!!」
賢者は舞の流れのまま、扇を頭上に投げ、上掛けの長衣の袖を抜くと、ばっと身を翻した。
片腕にノルを抱き、甲板に身を押し付ける。
一瞬の出来事だった。ダンッ、ダンッ、と仰向けになったノルの耳を掠めるのは、神弓隊の放つ矢。
「まさか……」
伏せたのは、とっさの判断だった。賢者も半信半疑だった。まさか、衆人が目撃している、この舞の只中に矢を放つとは。
ノルの父である村長からノルの救命を依頼され、賢者自身も様々な準備をしてはいたのだが。当初の計画よりも、いくぶん派手な……派手すぎる脱出劇となったが、仕方がない。
身代りに空に置き去りにした長衣の、袖が一気に炎にまかれる。
賢者はノルを引き、矢の届かない奥手に這いずった。
「泳げるね」
「……はい」
浮かぶ船は湖の真中。
はじめから、ノルを逃がす選択肢は、水中以外にない。
ふたりは船尾から、湖面へと身を躍らせた。
ひゅーるるる、ひゅーるるる、
風を切る音がして、一瞬後、破裂音と閃光を広げながら、花火が暮れきった空に連鎖して開いていった。