◆ロミの追憶 旅立ちの日
カイは飛び起きた。
旅立ちの朝である。だというのに、寝過ごしてしまった。
なぜ寝過ごしたかに心当たりがあった。昨夜、旅に必要なことが書かれていそうな本を見つけ、ついつい「読んで」しまったからだ。
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記憶が氾濫する。
幼き日々のことを思う。
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カイは、一度見たものを「絵のように」瞬時に記憶できるという能力を持っていた。
本も、一度「読んで」焼き付けてしまえば、頭の中でぱらぱらと捲り参照することに困らない。
それまでぼんやりと白く靄がかっていた視界が段々と晴れたある日のことを思い出す。
いちばんはじめの記憶は、白い乳や手や、やさしい微笑み。
それに「マーマ」という音が付随され、「名前である」と認識したことが、カイの霞を晴らしたのだった。
2歳の時には、文字を覚えた。4つ年長の兄が手習いの教書を音読すると、マーマは兄をとてもほめた。
それがうらやましくて、母の前で教書をそらんじたとき、
その時の母の顔が、どうして忘れられないのだろう。
母は、恐怖をたたえた目で、自分を見下ろしていた。
それから先、母から向けられた顔は、すべて作られたものであった、と、カイは思う。
わが子が「普通とは違う」と気づいた後も、母は努力をしてカイを可愛がろうとしたようだった。
第2次パーロル島移民2世の両親は、裕福ではないものの、貧しくもない生活をしていた。
海岸沿いを散歩する。「おにいちゃん、見て。きれいな石ね、きれいな珊瑚ね」
カイはいつも、後ろからとぼとぼと母と兄の影を追っていく。
母は完璧な作り笑いをもって振り返る。
「カイ…、カイ…」
放置される寂しさに耐えかね、カイは隠れて本を読み時を過ごすようになった。
5国協定下で図書館は出入りを厳しく制限されるが、どこにでも抜け道はあるものである。
4国戦争以前に発刊された蔵書の中には、多色刷りの美しい絵のついた児童書も多くある。司書をしている若い尼僧は、カイの境遇を哀れみ、カイが本を汚すようなことをしない子供だと知ると書庫に出入りすることを黙認してくれていたのだ。
もちろん、彼女は幼いカイが文字を追っているとまでは知らない。
美しい挿絵を慰みにと、やさしい女は思ったのだろう。
やがて、病んだ母は失踪した。兄だけを連れて。
カイが5歳のときであった。
ひと月ほどカイの面倒を見た後、「学園」の前に彼を捨てて、父もまた消えたのだった。
※
記憶は氾濫する。
増え続ける記憶、忘れられない記憶が、自分の頭脳の容量を超えて、溢れ出す。
いつか、飲み込まれてしまうのではないかという恐怖。
※※※
「つまり、いまのこの書庫のような状態であるわけだな」
幼いカイに、老師はため息交じりに告げた。
「これではたしかに、知に溺れる心持もわかる。カイ、有限な物質である書物でさえも、この惨状である。いわんや無限の精神の海ではいかほどのものか」
幼いカイは途方にくれて老師を見上げた。
「片づけ方を教えて進ぜよう。分類の概念は知りおるか」
「ぶんるい?」
「さよう。本の内容により、同じ種類のものは、近くに。違う種類のものは、遠くに」
「けんちく、と、すうがく、は、遠いですか」
「遠くもないが、近すぎもしない」
「けんちく、と、いがく、は、遠いですか」
「建築と医学は遠いな。いや、公衆衛生という概念と建築は近くもなるが、それはまだそなたには難しいだろう。医学はそちらの棚だ。ふむ。手の届かないときは台を使うがよろしい。そのように無理をするから戻せなくなるのだ」
※※※
眠っているときに、その日の記憶を整理する方法を覚えたのは、老師に導かれたからだ。
深海に潜るように、深く深く眠る。たくさんの本を読んだ後や、興奮が収まらないときなどは、目覚めが鈍い。
※※※
「カイ、よろしいか。出立の準備はできておるか。また遅くまで本を読んでいたであろう」
「すみません」
旅の準備は前日に済ませていたため、学園のあつらえた旅装に慌てて袖を通す。
ふむ、ふむ、と、老師はカイの旅装を眺める。
「これを持て。そなたの行く道が、迷いなきものであるよう」
それだけを言い、老師は背を向けた。
カイの手には、奇妙な装飾を施した杖が残された。
その意匠が、方位を計測するための計算尺となっていることは、カイだけが知る。
「ロミ老師」
「うむ」
「いってまいります」
「うむ」
老師はカイに背をむけたまま、うむ、うむ、と頷いた。
それが彼の見送りだった。